第24話 名無しの令嬢ですわ
婚約披露の会を開くと決まってからしばらくしたある夜。
暗い雨の夜道をゆっくりと進む馬車があった。
がらがらとわだちを残すその車体に記された紋様は、スウィビスの遠縁にあたる男爵家のもの。に似ているようで、よくよく見れば異なる家紋だ。
「トレッドさま、家紋をお借りできたのはとても助かりますけれど、その遠縁の方にご迷惑ではありませんの?」
馬車のなか、たずねたローレンシアの装いはいつもと違う。
常日頃はすっきりと大人びた衣装を好む彼女が身につけているのは、布をたっぷり使ったふんわりひらひらとしたドレス。
色味もローレンシアよりはエメローナに似合うだろうと思われる、淡い黄色。
髪型もドレスに合わせてゆるくふんわりと結い上げて、小花を模した飾りを散らしている。
はっきりした目鼻立ちがぼんやりとして見えるのは、化粧の力だ。
輝く銀髪を枯れすすき色のかつらに押し込めてしまえば、今のローレンシアをブレイド家の娘だと気づくものはそういないだろう。
「ああ、問題ない。この家紋を持つ家の者はすでにずいぶんな高齢でな。子に恵まれず、妻とした女性にも先立たれ貴族として立つ気力をすっかりなくしている。何年も前に屋敷を引き払い、今はブレイドの所有する土地の片隅で細々と暮らしているから、家紋をたどって探したとて本人に行き当たることは無いだろう」
答えるトレッドもまた、本日はいつもにない装いをしていた。
暗めの茶色をした上下に、襟の詰まったシャツ。首に巻いたクラバットは大きく波打ち、胸元を彩っている。
いつもは邪魔のならない程度に整えられている短髪を隠すのは、肩にかかる長さのさらりとした黒髪のかつらだ。
元々、顔の作りの整った彼である。黙って立っていれば品の良い貴公子めいた様相に、向かい側に腰掛けたローレンシアはつい微笑みを浮かべてしまう。
「あまり見ないでくれ、ロール嬢。自分でもおかしな格好だと思っているんだ」
「あら、おかしくなんてありませんわ。いつもとは違う装いも新鮮で良いものだと、顔がほころんでしまっておりましたのよ」
本心からの言葉に、トレッドは照れたように肩にかかる髪をはらう。
「新鮮というのは、まあわかる。いつもの服装はあなたの精神からにじみ出る美しさを体現しているように思うが、今日の装いはあなたの愛らしさが引き立ってこれはこれで良いものだと思う」
「まあ!」
微笑むトレッドの言葉にローレンシアは赤面した。
彼がお世辞を言うような人ではないと知っているからこそ、恥ずかしさがじわじわと湧いてくる。
顔の火照りをはらうように、ローレンシアは咳払いをひとつ。
「わたくし、本日はロールではありませんことよ。どうぞジェーンとお呼びになって」
すました彼女にトレッドは「そうだった」とうなずく。
「すまない、ジェーン嬢。俺のことはジョン=ドゥと呼んでくれ」
「嬢は不要ですわ。今日のわたくしはトリィさまのつ、妻、なのですから」
ふたりして偽名と身分を確認し合う。
本日のローレンシアはジェーン=ドゥ。ジョン=ドゥを名乗るトレッドの妻なのだ。
名無しを表す明らかな偽名を使うのは、身分を隠したい貴族がしばしば使う手である。
教会でも名を伏せて寄付をする際などに使用されるため、詮索はしないのが暗黙の了解となっていた。
偽名を決めて変装をしたふたりが向かうのは、地下洞窟のある教会だ。
夜道を進んだ馬車は、やがて教会の裏手へとたどり着いた。
御者が事前に教会から受け取っていた書類を門番に見せると大きな門がゆっくりと開く。
御者は間に何人もの仲介を挟んで雇った人物であり、スウィビス家ともブレイド家ともまったく関わりがない。
本人には『さるお貴族さまの御者をしてほしい』としか知らせていないため、彼を調べたところでローレンシアたちに辿り着くことはできないだろう。
書類についてはティンが独自のルートを用いて作成し、教会から実際に送られてきたものであるため不備などなかった。
どうやったのか、彼は教会の地下洞窟に世話になっている者と繋がりを作ったらしい。
「詳しいことは知らないほうがそれらしいでしょ」と言って、ローレンシアもトレッドも教えてはもらえなかった。
「ロール……いや、ジェーン。俺、じゃなくて私たちは気の毒な夫婦に同情してやってきた物好きな貴族だ」
「ええ、そうよジョン。わたしたちには有り余るお金なんて必要ないの、求めている方のために手を差し伸べることこそ貴族のつとめだわ」
互いに確認し合ったところで、馬車の扉が開かれる。
「ようこそおいでくださいました、あなた方のご慈悲に心からの感謝をいたします」
深々と頭を下げた司教のとなりに、もうひとり男がいた。
「お初にお目にかかります。お会いできて光栄です。しがない商人として、わずかながらお力添えをさせていただければと願っております。商談では無く神の救いを信じる者のひとりとしてこの場におりますので、名乗れないことをお許しください」
人あたりの良さそうな笑顔を浮かべたのは、商人のカィビ=ルーン。
対するトレッドは、できるかぎりの愛想の良い顔で「こちらこそ、お会いできてうれしいよ」と返した。
その隣でローレンシアはにっこり可憐な笑顔を浮かべて両手のひらをぱちりと合わせる。
思い描くのは無邪気な義妹エメローナの姿だ。
「すてきね! あなたのような商人がいると知って、ぜひお会いしたいと思っていたの。ひとは皆、助け合うべきだものね!」
「そうですとも、そのとおりです。奥さま」
にこやかに相槌を打つカィビと輪になって、笑い合うローレンシアとトレッド。
金を余らせた貴族の夫婦が、気の毒な人々のうわさ聞きつけた。そしてそこで尽力している商人がいると知って、資金提供を申し出た。
それが、今回ティンの描いた筋書きである。
そして貴族の夫婦を演じることとなったのが、ローレンシアとトレッドなのであった。
「つかぬことを伺いますが。おふたりはどこでわたくしの話を耳にされたのでしょう?」
ふと、笑いをおさめたカィビが問う。
口元は緩やかな弧を描いているが、その目は笑っていない。
暗がりのなかでもぎらぎらと光って見える瞳は、若い夫婦の真意を見抜こうというようだ。
(さすがにあっさりと信用してはくださらないようですわね)
(まあ、そうだろうな。ひとの善意などやすやすと信じていては、短期間でここまで大きな商売はできないだろう)
笑顔の裏で言葉を交わすローレンシアとトレッドの片耳には、それぞれひとつずつ、耳飾りが揺れている。
ふたつで一組のそれは、互いの思考を伝え合える禍付きの品だ。
耳元で聞こえる声に、ローレンシアがちょっぴりくすぐったい思いをしていると。
(ロール嬢。今ならまだ、金を払うだけで帰れるが)
気遣うようなトレッドの声。
思考をそのまま伝えるせいか、心配しているのだという彼の気持ちまで真っ直ぐに届く。
その思いがうれしくて、ローレンシアは作り笑いでなく微笑んでいた。
(いいえ、トレッドさま。わたくしは行きますわ)
ローレンシアの瞳が、さぐるようなカィビの目をまっすぐに見つめ返す。
「素晴らしい行いですから、神がわたしたちの耳にも届くようにはからってくださったのだわ。神はすべてをご覧になっておりますもの」
「それはそれは」
神の名を出されれば、教会の者の前だ。カィビとしても重ねて問いただしにくいのだろう。
カィビが言葉を探しているうちに、ローレンシアは畳み掛ける。
「わたしたちもぜひ、困っている方々にお会いしてその心をなぐさめたいの。共に皆さまの幸せを祈りたいの。どうぞ皆さまの元へ案内してくださいな」
無邪気に笑ったローレンシアの、それがトレッドへの答えだった。
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