第15話 気になる女性ができたんだ

「食べすぎてしまったようですの」


 そう言って微笑んだ彼女の名は、ローレンシア=ブレイド。

 トレッドの友人の妹であり、トレッド自身が親しくしたいと思っている女性だ。


 とは言え、会うのは本日が二回目。

 前回は彼女の兄であるティンに頼まれての外出であった。


 その行先は菓子屋。

 トレッドの甘味好きは、ティンも知っているところであった。

 けれども、ローレンシアの選んだ店が絵本を題材にした菓子屋であるとまでは知っていたのだろうか。


 それも、トレッドが読んだことのある絵本を題材にした店である、などと。

 笑顔の裏であれこれと考えを巡らせているらしき男、ティンもさすがにそこまでは知らなかったことだろう。


 トレッドは、幼少期に絵本を押し付けてきた母親にはじめて感謝した。

 いわく「筋肉ばかり鍛えて満足するようではいけません」とのことだった。


 身体を動かすことが楽しくて、剣を覚えることばかり考えていた幼いトレッドにとっては、退屈な時間であったが。


(うまそうな菓子の出てくる絵本ならばまだ楽しめる、と何度も読んだおかげだな)


 年ごろの女性と過ごす時間を窮屈に感じなかったのは、生まれて初めてだった。


 大人びた顔立ちをしているローレンシアが、花がほころぶように笑う姿も好ましかった。

 できたばかりの義妹をきちんと叱るしっかりとしたところもあれば、年相応にどの甘味にするか悩む姿も見せる。

 

 かといってあまりにも悩みすぎて決められないわけでもなく、話をしていて楽しい。


 かわいい。

 楽しい。

 心地よい。


 気づけば思わず店に長居をしてしまい、別れ際には次の約束をかわしていた。

 彼の人生において初めてのことだった。

 

 けれどもトレッドには彼女の他にも、気になる女性がいた。


 怪盗令嬢クロウ。


 黒衣に身を包んだ、謎の怪盗。

 騎士団内で話は聞いており、そのために騎士団の者はあちらこちらの夜会への参加を支持されたのだ。


 そして、退屈しのぎに友人のティンを誘ったオージィ男爵の屋敷で、怪盗クロウと出会ったのだ。


(いいや、出会ったというほどのものではなかったな)


 トレッドが彼女の姿を目にしたのは、ほんの瞬きの間。

 彼女のほうではトレッドの存在を認識もしていないだろう。

 それほどにさっそうと現れて、そして立ち去った。痕跡のひとつも残さず消え去ったのだ。


 けれどほんの一瞬の邂逅で、トレッドの目には彼女の姿が焼き付いていた。


(美しかった。風のように現れて、夜闇をすべるように消えていった姿が。なにより、あのなめらかな脚線がどうしても頭離れない。


 怪盗クロウを目にしたのがローレンシアと出会った後だったならば、悩みを抱くこともなかったのかもしれない。


 けれどトレッドは怪盗の姿が目に焼き付いて、好ましく思っているローレンシアに友人以上の接触を持てずにいた。


(こんな状態でローレンシア嬢と会うのは、不誠実なのではないか)


 そんなことを考えてしまうトレッドは、頭が固いとしばしば言われる。

 自身でもそう思うこともあるけれど、やはり気にかかるものは気にかかるのだ。


 だから、トレッドは騎士団の行動を待てずに教会に向かった。

 オージィ男爵が盗まれた品を売ったルーン商会。

 その怪しさは騎士団内部でも、貴族家としても耳にしていた。

 いわく、あまりに手広く商売をしすぎている。


 そこで調査の手が入ることとなった、ルーン商会の会長が出入りしている教会。

 その教会の話を聞いた時、思ってしまったのだ。


(そこに行けば、クロウに会えるかもしれない)


 願望が多分に含まれた、推測であった。


 けれど怪盗クロウにつながる手がかりを彼はほかに持たなかった。

 だから、真面目な男が職務の期日を待たずにひとり、駆け出したのだ。

 それほどに、トレッドの目に焼きついた怪盗の脚線は鮮烈だった。

 

 思い出すたび落ち着かなくなるこの思いが恋慕なのか、否か。確かめられずにいられなかったのだ。

 ローレンシアから次の約束に関する手紙が届く前に確かめて、すっきりとした気持ちで応えたかったのだ。


 トレッドは行動力のある男でもある。

 そのため、思いのままに教会へと向かったのだ。

 クロウが来る保証などどこにもない。

 騎士団ではルーン商会の会長の動きまでは調べられなかったため、クロウ動くとしてもいつになるかなどわからなかった。


 そのため、トレッドはローレンシアからの返事が来るまでは毎日、教会の周辺をうろつこうと決めたのだ。


 結果として、教会に向かった初日に彼女に会うことができた。

 言葉交わすことも、その手を取ることもできた。

 

 ちいさな手だったと、覚えている。

 奇妙な面で顔は隠れて見えないが、脚のラインの美しさはよくわかった。


 けれどそれ以上にトレッドの記憶に残ったのは。


(地下に広がっていた花畑……怪盗クロウ、彼女はあの光景を目にしてひどく衝撃を受けているようだったな)


 彼女の目的は、ルーン商会の会長カィビの取り扱っている品、などと言っていたけれど。

 実際のところは違うのだろう、とトレッドは見ていた。


 聞いたところで怪盗クロウは素直に教えてくれそうもない。

 それでも彼女に対して抱く感情を見定めたい思いで、トレッドは教会の中にまで忍び込んだ。


 そこで見た光景にトレッドは驚いた。

 けれどそれよりも、怪盗クロウが明らかにうろたえているのがわかって、意外に思った。


(もっと擦れた女性かと思っていたのだが)


 目にした光景に胸を痛め、動揺を隠しきれていないその姿は年若い令嬢と変わりない。

 悲鳴こそあげなかったものの、顔色の悪さは仮面越しでもよくわかった。


(案外、ロール嬢と変わらない年頃なのだろうか)


 人が花のように枯れ絶える様にはトレッドも驚きはした。

 けれども、このような状況を予想していないわけではない。

 いまだ経験が浅いとはいえ、彼も騎士なのだ。人がきれいごとだけで生きているのではないと、知っている。


 けれど、怪盗クロウは知らなかったのだろう。

 かすかに震えるその肩を抱きしめたいと思ってしまう気持ちは確かにあった。

 しかし無防備な細い肩に触れることはせず、トレッドは教会を後にしたのだった。


 思うところがあったため、騎士団には隠し扉の件を伝えずに。

 そして迎えた、ローレンシアとの二度目の逢瀬。


(まずいな、腹を決めたことに気を取られて、何も用意せずに来てしまったぞ)


 勇んで家を出てきたトレッドは、店の前で愕然とした。

 ローレンシアに会うことばかり考えていたせいで贈り物のことがすっぽり頭から抜けていたのだ。


(予定では店を決めてもらった礼にちょっとした手土産を用意して、それをネタに会話をするつもりだったのだが)


 トレッドは気の利いた話題など持ち合わせていない。

 だというのに、うっかり手ぶらでやってきてしまった。

 約束の時間までいくらかあるが、咄嗟に気の利いた贈り物が選べるような男ではない。


 いざはじまれば、ローレンシアと過ごす時は楽しいものだったが。


 ローレンシアの様子のおかしさに気づくまでに、そう時間はかからなかった。

 彼女は笑顔だ。

 楽し気に笑い、会話も弾む。けれど。


(今日はどこか上の空だな)


 ふとした瞬間に彼女は瞳をさまよわせるのだ。

 笑顔のまま、迷子のように寂し気な目をしているときがあった。


(何か不安を抱えているのか)


 ならば話してほしい、とトレッドは思った。

 けれど、二度あっただけの相手にあれこれと話すようなうかつな女性でもないと、わかっていた。


(俺がもっと親しい仲であれば良かったのだが)


 笑顔の彼女に笑い返しながら、トレッドは歯がゆい思いを腹に飼う。

 そうしていくらか時が過ぎて、とうとう彼女の手はとまってしまった。


 腹がふくれた、というのが方便だとはすぐにわかった。


(まだいくらも食べていないじゃないか)


 けれど指摘せず、代わりに皿を空にしながらトレッドは腹を決めた。


(思い悩む姿を眺めることしかできないのが悔しいならば、もっと親しくなればいいんだ)

 

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