第14話 楽しい時間、のはずですのに。

「ロール嬢!」


 店のそばの馬車止めに馬車が停まる。開いた扉の向こうでは笑顔のトレッドが出迎えてくれた。


「トレッド様。立ったままお待たせしてしまったのですね! せっかくのお休みに疲れさせてしまって、申し訳ございませんわ」


 差し出された大きな手に自身の手を預けながら、ローレンシアは馬車を降りた。

 先に席に着いていてくれるよう使いを走らせようかとも思ったのだが、予定している店はやはり女性客が多い。そのさなか、ひとりきりで座って待つほうが苦痛かもしれない。けれども立ったまま待たせるのは申し訳がない。


 ぐずぐずと悩んでいるうちに馬車に乗り込む時間になり、そわそわしながらやってきた。

 そんなローレンシアをトレッドは笑顔で出迎えてくれたのだ。

 申し訳なさがローレンシアの胸にずしりとのしかかる。


 つい視線を下げてしまったローレンシアをはげますように、つないだ手がやさしくぎゅっと握られた。


「女性の支度に時間がかかるのは当然のこと。それにこの程度の時間、立っていたところでへばる者は騎士団にはいない。何なら今からあなたを抱えて、屋敷まで走ったところで問題ないな」

「まあ、面白い冗談ですこと!」


 いかにも本当のことらしく真顔で言うトレッドがおかしくて、ローレンシアはつい笑ってしまった。


(真面目でやさしい方だと思っていたけれど、冗談も言えるのね)


 くすくす笑うローレンシアを見下ろして、トレッドはわずかに眉を下げる。


「本心なんだが」


 ローレンシアは冗談だと思っているが、トレッドは重たい鎧を身につけて剣を持って動き回れるよう鍛錬を積んでいる騎士なのだ。

 鎧を脱いで剣を置いた状態なら、ご令嬢ひとり抱えて走ったほうがむしろ軽やかに駆け回れる。


 そうとも知らないローレンシアが楽しげにころころ笑うものだから、いっそ抱えてしまおうか、などとトレッドが思ったとき。


「ふふ。ありがとうございます。ではもう気にしないことにいたしますわ」


 ローレンシアは言って、トレッドの手を引っぱった。

 あまり気にしていてはトレッドにかえって気を使わせてしまう、と思い直したのだ。


「それでは改めまして。本日はごいっしょさせてもらえてうれしいですわ。さっそくですけれど、お店に向かいましょう!」

「ああ。俺も楽しみにしていたんだ。先日の店もなかなか楽しかったからな。今日はどんな場所だ?」


 トレッドもすぐにのってくれて、ふたりは並んで店に向かう。

 扉をくぐった先に広がっていたのは、はちみつの香りに満ちた空間。


「これは……はちくまの店か!」

「ですわ!」


 目を見開いたトレッドと顔を見合わせ、ローレンシアはにっこり。

 空いているお席にどうぞ、という店員の声にうなずいて返し、窓際の席へと連れ立っていく。


 トレッドが口にした『はちくま』というのは、絵本『はちとくまの甘いお店』シリーズの略称だ。

 はちみつを食べたいくまとはちが協力して花畑をつくり、食べきれないほどのはちみつを使ってお店を開くというお話。


「実際のところは単に、はちみつ農家のご親族様が経営してらっしゃるだけで、絵本を題材にしたわけではないそうなのですけれど」

「そうなのか。いやしかし、この甘い香り。壁一面に並んだ琥珀色の瓶。絵本に載っていた光景そのものだな」


 説明を聞いてもトレッドは関心したように店内を眺めている。


「本当に、絵本を現実にしたような空間ですわね。わたくしも人から聞いただけでしたので、実際に足を運べてうれしいですわ」

 

 ローレンシアが口にしたのは本心だ。

 笑顔を浮かべたままお品書きを手に取ってみる。

 

「まあ、ご覧になって。はちみつの種類がこんなにもたくさん!」

「すごいな。絵本にあったより多いとは。ここはやはり食べ比べができるパンケーキを選ぶべきか?」


 まじまじと覗きこむトレッドといっしょになって、ローレンシアも文字に目を落とす。


 あたりにただよう甘い香り。

 お品書きにいくつも並ぶおいしそうな文字列。

 楽しげに注文する品を選ぶトレッドの笑顔。

 陽射しはあたたかで、おだやかな気配に満ちた店内は居心地がいい。


 大好きなものに囲まれたローレンシアの心は浮き立つ。

 どこを見てもわくわくして胸が弾む、はずなのに。


(トレッド様、あの日。あの地下で見た光景を覚えていらっしゃいますか)


 ローレンシアの心が弾もうとするたび、思い出されるのは青白い光を宿した花のこと。


「わたくし、このはちみつに挑戦してみますわ!」

「大丈夫か? くせがある、と書かれているが」

「せっかくの機会ですもの、試してみなければ」


 トレッドと顔を見合わせていても、脳裏にちらつくのは寝かされた人々と祈る家族の光景。


(トレッド様。わたくし、あの日いっしょにいた怪盗クロウですのよ)


 禍をこぼしながら、病人に光をあたえるあの花を見て、トレッドは何を思ったのだろう。


「むぅっ!」

「そんな顔するほどか。むしろどんな味が気になってくるな」

「……すこし、召し上がりますか?」


 くせの強いはちみつの瓶をふたりですくって味見をしていても。


(あの場にいた方々はどれだけの宝玉に祈ったことでしょう。その宝玉を手に入れるためにどれだけのものを手放したのかしら)


 頭にこびりついた懇願の声が消えてくれない。


「むっ……! これは、なかなか……」

「ふふふふ、トレッド様。眉間のしわが大変なことになっておりますわ」


 変わり種のはちみつに顔をしかめたトレッドに笑いながらも、ローレンシアの心はどこか冷えていた。


(あの日のわたくしも、仮面の下で眉を寄せていたのかしら)


 ほがらかで楽しい時間のあいだ、ずっと気にかかるのはあの日のこと。


「ねえ、トレッド様」


(わたくしはあの日、どんな顔をしていましたの?)


 たずねそうになって、ローレンシアは口をつぐむ。

 

(何を聞こうとしているの。あの日、共にあったのは怪盗クロウ。わくしではないのに)


 聞きたい。聞けない。

 胸で渦を巻く言葉が勝手にこぼれてしまいそうで、ローレンシアは思わず唇をかみしめた。


「どうした、ロール嬢?」 


 すかさず気づいてくれるトレッドの優しさがうれしい。

 ローレンシアが怪盗令嬢クロウだと疑いもしない実直さがにくい。


 相反するふたつの気持ちがローレンシアの胸のなかで混ざりあう。

 

(気づかれて困るのはわたくしなのに)


 そうしてたどり着くのは自分への苛立ち。

 ここ数日の間、ずっと繰り返してきたことだ。


「そんなにも口に合わなかったか? 何か口直しになるものを頼もうか。はちみつショコラなら食べられそうか? 飲み物のほうがいいだろうか」


 ひとりきりで悩んでいた時間と違うのは、目の前にトレッドがいること。

 気をつかってくれる彼のやさしさに、ローレンシアはふと思う。


(言ってしまおうかしら。わたくしが怪盗令嬢クロウなのです、って)


 トレッドはどう反応するだろう。

 驚くだろうか。

 冗談だと思って笑うだろうか。

 それとも、実はすでに気が付いていたりするのだろうか。


 聞きたい。聞けない。

 ふくれあがる思いを抑えて、ローレンシアは微笑む。 


「問題ありませんわ。けれど、すこし食べすぎてしまったようですの」


(ねえ、トレッド様。わたくし苦しいのです)


 言葉にできない想いが伝わるはずもない。

 トレッドはほっとしたように微笑んだ。


「そうだったか。ならば残った分は俺がもらおう。いや、あなたが嫌でなければだが」

「そんなはずありません。むしろありがとうございます、ですわ。ブレイド家では自分で食べきれない量を頼むのはいけないことだと教えられますの」

「じゃあロール嬢の名誉のために、ここは俺がきれいに平らげよう」

「ふふ。頼もしいですわ」


 ほがらかに会話を続けられたことにローレンシアはほっとした。

 それからは、トレッドが食べる様を眺めながらカップを傾ける。はちみつ入り紅茶が身体のなかにとろとろと溶けていくようで。


(わたくしの気鬱もいっしょに溶かしてくれればよろしいのに)


 ローレンシアが感じたわずかな苦みは、紅茶の渋みだったのか、否か。

 はっきりとしないまま、いつまでも残っていた。

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