第9話 ささっと怪盗、しれっと令嬢、とはいかないようですわ
夜闇にさあさあと雨が降る。
かすかな音を立てる冷たい雫のために、いっそう静かさが際立つ夜だった。
人々が寝静まった街の端。さびれた教会のその隣の小屋の中。
ちっぽけなろうそくが照らす薄暗い部屋の中に立つ令嬢がひとり。
つ、と動いた細い指が、長い髪を後頭部の高いところでまとめる。
黒い羽のブローチを胸につければ、華やかなドレスはどこへ消えるのか。ぴたりとした黒衣が身体に沿って優美な線を描く。
仕上げに鴉を模した面をつければ、きらめく銀髪は艶やかな黒髪へと色を変える。
怪盗令嬢クロウの完成だ。
全身を上から下まで眺めて、綻びがないか確認したティンが頷く。
「ローレンシア、いいかい。今日の目的は件の商人と教会との取引現場を押さえること。できれば取引した品をいくつか持って帰ってほしいけど、これはできればだから無理はしないように」
「もう、何度も言われなくともわかっております。わたくし、クロウが失敗したことなどありまして?」
クロウへと姿を変えたローレンシアが、面の下からのぞく唇をつんと尖らせる。
「ルーン商会が教会と取引する場を盗み見に入るのは、何度目だと思いまして? もう片手の数よりたくさん、こなしていますのよ」
「でも、商会長のカィビ自ら動く取引は今回が初めてだろう。それに今回は場所が場所だ。注意に注意を重ねることは、無駄にはならないよ」
カィビ=ルーンが大量の禍付きの品をオージィ男爵に売りつけていたことが判明してから二週間。
ローレンシアはルーン商会が訪問する先々に忍び込んでは、おろされた品を確認した。
ある日は衣服を運んでいた。
またある日には靴にするための皮を運んでいた。
またまたある日には花を、果物を、肉を。
今日まで調べに調べた結果わかったのは、ルーン商会がずいぶんと手広く商売をしているということ。
「新興商会だというのに、あまりにも販路が広すぎる。背後に名のある貴族家でもいるのかと思えば、それもない。絶対に何か裏があるのに、まだひとつも怪しいところを見つけられない。それこそが怪しいんだ!」
力説するティンに、ローレンシアは「それも何度も聞きましたわ」とすげない返事。
「だからこそ、今夜のカィビ当人が出向く時に何か事を起こすに違いないとおっしゃるのでしょう?」
連日、ルーン商会を探り続けていたローレンシアはうんざりぎみ。
「今日のお仕事が終わったら、収穫があろうと無かろうと、わたくしトレッド様に手紙を書きますからね」
うんざりの理由の大部分は、トレッドとの約束に返事を書けずにいたこと。
その人の名を口にした途端、ローレンシアの瞳がうれしげにきらめいた。
目にしたティンは兄として複雑やら、トレッドの友人としてうれしいやら。難し顔でローレンシアを見る。
「次で会うのは二回目だろう。僕も同席しようか?」
「あら、お兄様は甘いものを好みませんでしょう? 無理なさらずとも、わたくしトレッド様とふたりで楽しく過ごせますわ」
つんつんとそっぽを向いたローレンシアは、ティンに背を向けた。
「わたくしも、もう十六ですもの。いつまでも子どもではありませんのよ。殿方とお会いするのにお兄様同伴なんて嫌ですわ」
言って、ローレンシアは薄暗い部屋からするりと姿を消した。
しんと静まり返った部屋に残されたのはティンひとり。
と思いきや。
色褪せた扉がかたん、とかすかな音を立てた。その正体は床との隙間に差し込まれた薄い木切れ。
ブレイド家の手のものが、密かによこした連絡だ。
手に取り、視線を落としたティンは目を見開いた。
「ローレンシア、戻るんだ!」
慌てて扉を開けて叫ぶが、怪盗の姿をした彼女はすでに闇の彼方。
雨にけぶる暗がりの中に名残すらも見つけられない。
ならば、と耳につけたイヤリングに触れ念じようとしたティンは、すぐそばのテーブルに置かれた物に気づいて愕然とした。
「嘘だろう、ローレンシア……」
ころりと転がるちいさなそれは、ティンの耳を飾るのと対になったイヤリング。
いつも決して忘れず身につけていくそれを置いて、ローレンシアは行ってしまったのだ。
連日の怪盗業による疲労のせいか、はたまた騎士との次の約束に意識を持って行かれているせいか。
今、原因を考えたところで仕方がないとわかりつつも、ティンはぐるぐると考えるのを止められなかった。
その他に彼にできることは、ただ茫然と立ち尽くすことだけであったから。
※※※
雨粒を浴びながら、ローレンシアは空を駆ける。
間も無く高度を下げ、音もなく着地をしたのはとある教会の裏手。
立派な教会だった。
雨の夜にも関わらず、敷地内のあちこちで火が焚かれている。
こんな時間に誰が訪うというのか正門には明々とした日が揺れ、小さな門扉のひとつひとつにも雨除けを施した明かりが備え付けられているらしい。
雨のなか、ぼんやりと浮き上がるように建つのは古い教会だった。
都のほぼ中央に位置する、歴史ある教会だ。
それはつまり、力ある司祭が取りまとめている場所でもあるということ。
そのため、歴代のブレイド家も探りを入れられずにきた場所である。そして同時に、ブレイド家へと送り込まれたエメローナが暮らしていた場所でもあった。
確実になにかある。
それがブレイド家の総意だ。
(その何かを探るための取っ掛かりが今夜、見つけられるに違いないのですわ。もうすぐやってくるカィビ=ルーンが、きっと鍵になる……)
気取られないため、侵入はカィビ=ルーンの訪問と同時に行うと事前に決めてある。
それまでは教会裏の路地で息を潜めていなければならないのだが。
暗がりに溶けるように教会の塀に寄り添って立つローレンシアの身体が、ぶるりと震えた。
恐怖でも武者震いでもない、生理的な震え。
怪盗の装束に身を包んではいるものの、雨の冷たさがローレンシアの熱を奪う。
首元の布を手に取りフードがわりにかぶってはみるものの、ほんの気休めにしかならない。
「雨は嫌いだわ。冷たいから」
かすかなつぶやきは雨音に流されて誰にも届かない。はずだった。
「お嬢さん、こんな雨の日にどうしたんだ」
不意にかけられた声は男性のもの。
それも聞き覚えのある声に、ローレンシアは驚き振り向いた。
暗がりの一歩向こう。教会からこぼれた光のなかに立っているのは、騎士服をまとった金髪の青年だ。
澄んだ青い瞳は暗い夜の中だというのに、鮮やかなままローレンシアに向けられていた。
(トレッド様!?)
とっさに叫ばなかったのは、あまりにも予想外の相手であったから。
(どうして? 騎士の巡回の時間と被らない位置にいるのに。そもそも、トレッド様は今夜、巡回勤務ではないのに……)
これこそが、つい先ほどティンの元にもたらされた知らせだった。
『騎士がひとり、教会へと向かっているようだ』
ティンが手にした木切れには、そう書かれていたのだから。
けれどそんなことは露知らず。
ローレンシアはどうして、どうしてと混乱のあまり何も言葉を返せない。
それを怯えととったらしい。トレッドが一歩離れて、身に着けた服がよく見えるようにと胸を張った。
「警戒しなくていい、俺は騎士だ。野暮用で通りかかってな、道ばたに佇むあなたが気にかかったんだ。夜闇に帰り道を見失ってしまったのか? 道案内している時間はなくてな。方向ぐらいなら教えて差し上げられるが……」
どうしたものか、と思案するトレッドは、まだ声をかけた相手が不審な怪盗だとは気づいていないようだった。もちろん、ローレンシアであるとも気づいていない。
(フードと暗がりのおかげで見えていないみたい……このまま、どうにか切り抜けて一度、この場を去らなくては)
ローレンシアはうろたえる自身を叱咤して、不自然に見えないようにといっそう俯く。
「騎士さま、あの。四番街へ向かう道はどちらでしょう。あんまりにも暗いもので、どちらへ進んで良いやら迷っていたのです」
意識して声を細く、頼りなげに。
声色を変えて、やり過ごそうとした矢先。
「四番街ならばこの道を真っすぐ行って、大通りを右に……ん?」
トレッドが不意に大きく踏み込んで、ローレンシアのいる暗がりに入ってくる。
びくりと肩を震わせたローレンシアに構わず、彼はずいっと近づいた。
「あの、騎士さま?」
「やはりあなたか、怪盗令嬢クロウ!」
「くっ、バレてしまいましたわね」
言い当てられたローレンシアは慌てて飛び退ろうとしたが、相手は騎士。
囲い込むようにして背後の壁に押し付けられてしまい、身動きが取れなくなる。
顔を隠すようにかぶった布を払い落とされて、鴉の面が露わになってしまった。
その手の乱暴さが気に食わなくて睨み上げたローレンシアだけれど、予想以上にトレッドの顔が近くにあって、慌てて目を逸らす。
(近い、近いですわ! 胸が、腕が、身体が触れあってますわ!?)
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