モダンガールな彼女

由希

モダンガールな彼女

「……すごいなあ……」


 目の前にそびえ立つタワマンを見上げ、私は思わず息を呑む。

 レンタルソフレ、すなわちレンタルの添い寝サービスで働き始めて半年。新規の客だと指定された住所に在ったのは、何階まであるのか見ただけでは解らない高級タワマンだった。


「一生働いても、こんな所に住める気しないなあ……一体今日のお客様って、どんな人なんだろ……」


 今まで仕事で来た中でも一番の高級地に、私は今日の客に思いを馳せる。うちのサービスは従業員も客も女性限定だから、女性なのだけは間違いないのだけど。

 緊張しながらエントランスを潜り、オートロックの前のインターホンで客に来訪の旨を告げる。返ってきたのは電子に変換されてても解るくらい、穏やかで落ち着いた声色だった。

 通話が切れると同時、オートロックが開く。私は思わず心臓の辺りを強く握り締めながら、その先へと進んだ。



「いらっしゃい。お待ちしていたわ」


 そうして私を出迎えたのは、私の母くらいの歳だと思われる上品そうな女性だった。

 一目見て、目を奪われた。身に付けているアイテムの一つ一つは、他のこの年頃の女性がよく身に付けているようなごくありふれたものだ。

 けれどその色、そのデザイン。全てが合わさったその姿はまるで完成されたジグソーパズルのようで、酷く洗練された印象を受けたのだった。

 染めずにそのままにしてある白髪の目立つショートカットも、決してみすぼらしい印象を与えない。それすらもこの完成されたパズルのピースの一つになっていて、真におしゃれな人とはこういう人を言うのだと思った。


「ほ、本日は当サービスをご利用頂き誠にありがとうございましゅ……」


 しまった。滲み出るオーラに気圧されて、思わず噛んでしまった。

 だってこんな素で芸能人みたいな人、プライベートでも見た事ないから……。


「うふふ、可愛らしいお嬢さんね。こういうサービスは初めて利用したけれど、来て下さったのが貴女のような方で安心したわ」

「い、いえいえ滅相もっ」

「今日はよろしくね。そうだわ、寝る前に温かいミルクはいかがかしら?」

「いえっ、お客様からは何も頂いてはいけない規則になっていますのでっ」

「そうなの? 残念ね」


 見た目だけじゃない上品な物腰に、こっちは圧倒されっぱなしだ。何だか自分がいかにつまらない人間か、ずっと突き付けられてる気分だ。

 こんなすごいタワマンに住んでいるのも、まさに納得の客。強いて言うならマンションよりも、一軒家の方が似合いそうな人ではあるけれど。


「そうそう、改めて自己紹介しておくわね。一条いちじょう霧江きりえよ、相談役の真似事のような事をしているわ。お嬢さんのお名前は?」

「は、はい……赤木あかぎかえで……です」

「あら、素敵なお名前ね。今の時期を表しているようだわ」

「あ、あはは……実はこの名前で夏生まれなんですけどね……母がどうしても、子供には楓って付けたかったらしくて……」

「それも素敵ね。愛のこもった贈り物だわ」


 そう言って、一条さんは優しく微笑む。それはお世辞だったのかもしれないけれど、何だか不思議とすんなり胸の中に溶け込んだ。

 ……本当に、不思議な人だ。普段は見知らぬ人と、こんなに会話が続いたりしないのに。


「それじゃあそろそろ、お仕事の方をしてもらおうかしら。ごめんなさいね、年を取ると話が長くなって」

「あ、はい! それでは寝室に案内して頂けると」

「ええ。こっちよ」


 背筋をぴんと伸ばし、先に立って歩き出す一条さんに、私は慌ててついていった。



 準備を整え、一条さんと同じベッドに入る。一条さんのベッドは、どこか優しい匂いがした。


「うふふ、こうしていると何だか、少女時代のお泊まり会みたいね」


 朗らかに、どこか楽しそうに、向かい合って横になる一条さんが笑う。その笑顔はまるで、高校生くらいの女の子に見えた。


「この歳になって、こんな若いお嬢さんと一緒のベッドで寝るだなんて、昔は思いもしなかったわ。人生、何が起こるか解らないものね」

「あの……一条さん」

「どうか霧江と呼んで。そちらの方が嬉しいわ」

「じゃあ、霧江……さん。霧江さんはどうして……添い寝を頼もうと思ったんですか?」


 思わず、そう聞いていた。こんな風に客のプライベートに踏み込もうなんて、今まで一度も思った事がないのに。

 私達に添い寝を頼む客はいつだってみんな、とても疲れた顔をしていた。誰かに抱き締められて眠りたい、そんなささやかな願いを叶えたいだけの人達だった。

 けど霧江さんはとても堂々としていて、影なんて少しも見えなくて。こんなサービスを必要とするようには、どうしても思えなかったのだ。


「……私ね、末期がんなの。保ってあと一年って、そう言われたわ」


 すると。霧江さんは、何でもない事のようにそう言った。


「……え。末期がん、って」

「笑っちゃうでしょう? 女だてらに会社を起こして、それを大きくする為に必死で働いて、気が付けば婚期もとっくに過ぎて閉経もして。そうなってから、自分の命があと一年と知らされるなんて」


 まるで他人事みたいに語られるそれは、全然笑い飛ばせないようなもので。どんな反応を返せばいいか解らなくて、私はただ固まるしか出来なかった。


「だからね、私、残りの一年を好きに生きる事にしたの」


 そんな私に、霧江さんは全部見透かしてるみたいに笑みを深めた。


「会社を人に譲って、今まで貯めてきた貯金も好きに使って。ずっと出来なかった事、やりたかった事、興味を持った事を何でもやる事にしたの。例えそれで、失敗する事があったとしてもね」

「何でも……」

「だって、いざ死ぬ時になって、ああしとけば良かったって後悔ばかりなのは悲しいでしょう?」


 ぽたり。その言葉は雫になって、心に落ちて波紋を生んだ。

 何となく、漠然と、自分はおばあちゃんになるまで生きるのだと思っていた。だから何かしたい事が出来ても、老後の楽しみに取って置けばいいと思っていた。

 でも……でも、こんな風に、自分の命がもう長くないと突然知らされた時。私は、霧江さんみたいに出来るだろうか。

 その時になって混乱するくらいなら……今から、いつその日が来ても後悔しないように生きるべきなんじゃないだろうか……?


「ねえ、楓さん。私を抱き締めてくれない?」


 そんな事を考えていると。不意に、霧江さんがそう言った。


「え……?」

「子供の頃のように、誰かに抱き締めてもらいながら眠りたいの。大人になると、こんなサービスでも頼まない限り、そんな機会なんてそうそうないでしょう? ……ダメかしら?」


 可愛らしい、花の咲くような笑顔を浮かべ、霧江さんが問いかける。それを見る私の顔にも、自然と笑顔が浮かんでいた。


「構いませんよ。……いえ、是非、抱き締めさせて下さい」


 望まれた通りに、そっと霧江さんを抱き締める。立って話をしている時はあんなに堂々と凛として見えた霧江さんは、直に触れてみると思ってたよりずっと細くて、簡単に折れてしまいそうな儚さを感じた。


「ふふ、温かいわね。ありがとう、楓さん。それじゃ、おやすみなさい……」


 そう言って、霧江さんの言葉は止んだ。少しして小さな、規則正しい寝息が聞こえ始める。


「……おやすみなさい、霧江さん……」


 彼女の寝息をBGMにしながら。私もまた、そっと瞼を閉じた。



 仕事を終え、霧江さんのタワマンとは比べようもない古い安アパートに帰宅する。ふとマナーモードにしたままのスマホを取り出すと、メッセージアプリに着信が届いていた。


『俺が悪かった。もう浮気なんてしない、もう一度話し合おう』


 表示されたその文字列を、冷めた目で見る。それは、来月結婚する予定の婚約者からのものだった。

 半年前の同窓会で再会した高校のクラスメイトで、彼との結婚と同時に私はこの仕事を辞めるはずだった。いや、今思えば、この仕事を辞めたかったから彼のプロポーズを受けたのかもしれない。

 その彼の浮気が発覚したのは、つい三日前の事。相手はやはり、あの同窓会の参加者。彼は私を選ぶと言ってくれて、私も彼を許そうかと思い始めていたのが、つい昨日の事。

 けれど。それで本当に、私は後悔しないのか。私を裏切った彼と仕事から逃げるように結婚して、それでもし、あなたはもうすぐ死にますなんて言われてしまったら。


 ——私は本当に、霧江さんみたいに笑えるのだろうか。


『私もあなたに話があるの。今度の休みに会いましょう』


 そうメッセージを打ち、送信する。彼はこれを見て、許されたと思うだろうか。

 でも、私は、「都合のいい奥さん」にはならないって決めたんだ。

 きっと私は、霧江さんほどは真っ直ぐ前を歩けないけれど。ほんの少しだけ、それを真似してもいいかなって。


「……ありがとう、霧江さん」


 もう二度と会う事はないだろう彼女を想って、私はそう呟き、天を仰いだ。

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