幕間 ソニア・ラザフォード
第8話
「この愚か者め」
先生は事あるごとにそう僕を叱った。
先生、ソニア・ラザフォード大尉は陸軍の特殊部隊選抜テストを突破したばかりのひよっこ新米特殊部隊員だった僕を鍛えてくれた教官だ。何事にかけても豪快な女性で、男性と見紛うほどに発達した上腕二頭筋の持ち主でありながら卓越した魔法の使い手でもあった。現在では世界中の軍隊が採用している近接魔法戦闘術の開発者でもある先生は、アメティカ軍に特殊部隊が創設された当初からのベテラン特殊部隊員で、アメティカ軍特殊部隊の母とすら称される存在だった。
知識は深淵で、肉体は頑健。思慮深くも決断は迅速で行動は果敢。その振舞いは常に迷いがなく、エメラルドグリーンの瞳には全てを見透かすかのような光を湛えられていた。
教官であると同時に上官でもある彼女のことを「先生」などと呼ぶのはおかしなことだと思うかもしれない。けれど、僕にとって先生はただの教官でも、ただの上官でもなかった。だから、「先生」と呼称する以外に、僕と彼女の関係性を適切に言い表す言葉を僕は知らなかった。
事実、僕は先生から全てを教わった。
戦闘技術に関することだけではない。この世界の事、アメティカの事。きっと本来は母親や父親から教えられていて然るべき常識のようなことまで。生きてゆくために必要となるだろう全てを、僕は先生から教わった
およそ一年の教育訓練期間と、その後の数年に渡る実任務を経て、先生は人間として右と左どころか前後すら不覚だった僕を一端の特殊部隊員へと作り変えた。
そう。まさに作り変えたというべき教育だった。その以前と以後で、僕は別人のようになったと自分でも思う。先生から教えを受ける以前の僕は、ただ漫然と与えられた仕事をこなすだけの土人形だった。自分がしていることの意味も、わけも分からぬままに、ただただ命じられたことを、その通りに実行しているだけだった。今のように、自分の行為によって齎されるだろう結果について想いを馳せることもなかった。
それは遅すぎると言えば遅すぎる、自我の芽生えだったのかもしれない。
思えば、その頃から僕はあれこれと小さな、下らない問題に思い悩むようになったような気がする。それでも先生は、そんな僕をいつも導いてくれた。僕が迷うたびに正しい道を指し示してくれた。だから、先生が新たな特殊部隊を創設するために魔導軍へ移ることになった時も、僕は迷わずその後に着いて行った。
そうして先生について行った先、先進魔導戦開発グループだった。
そこで先生と僕がまずやった仕事は、魔法使いの殺し方のマニュアルを作ることだった。対魔法戦術は今でこそアメティカ軍を始めとした世界中の軍隊、法執行機関に普及しているけれど、当時は最重要機密であり、その為にマニュアル完成までの間、僕らの存在は厳重に秘匿されていた。
それは先進魔導戦開発グループに来てから一年ほどが経ったある日の事だった。開発中の対魔法戦マニュアルはほぼ完成しており、後は実用に耐えうるかどうか、実戦での検証を待つばかりだった時。僕らのもとへとある仕事が持ち込まれた。
その仕事を持ち込んだのは、ある政府の高官だった。国家の最重要機密さえ知ることのできる立場だったのだから、時の政権でも相当の地位にあったのだろう。彼は僕ら先進魔導戦開発グループの機密性に目を付けて、アメティカの南方にあるという小国でテロを画策しているという魔法支配主義グループの指導者を秘密裡に排除、暗殺してほしいと依頼してきたのだ。高官はその見返りに、当時はまだ実験部隊扱いだった先進魔導戦開発グループを魔導軍直下の極秘研究機関として認め、その活動のために莫大な予算を投じるという計画書を提示してきたという。これに魔導軍の上層部が飛びつき、僕らに任務の実行を命じた。 実権部隊ではあったが、先進魔導戦開発グループの隊員たちはいずれも陸海空、海兵隊の特殊部隊上がりばかりだったから、実戦に投入されても練度の問題はまったくないというのも、上層部の腰を軽くした一つの要因だったのだろう。しかし、今にして思えば、それが
切っ掛けになり、先進魔導戦グループは現在のような形に変わってしまったのだ。
魔法支配主義グループの指導者暗殺を命じられて僕らが向かった先は、アメティカの南部に位置する小さな国だった。当時はまだ転移陣などという便利なものは実用化されておらず、作戦地域への侵入には特殊部隊らしく、伝統的な高高度からの空挺降下を行うことになった。空を飛ぶ乗物から飛び降りて地上に着地する技術はフィクションにも登場するが、ファンタジーのように布で出来た大きな傘を使って着地の衝撃を和らげるとか、そんな危なっかしい真似はしない。僕らが使うのは浮遊の魔法がかけられている降下用マントだ。それを羽織って雲よりも高い空を飛んでいる航空機から飛び降りるというのは原始的かつ乱暴な潜入方法といえなくもないが、転移陣を運用していない先進魔導戦開発グループ以外の特殊部隊では今もなお現役の技術である。
任務に選ばれたのは先生と僕、そして同じ先進魔導戦開発グループの初期メンバーである二人の隊員だった。そのうちの一人はアダムスだったらしい。らしい、というのは、当時の僕はまだ彼とそれほど親しくはなかったので、憶えていないからだ。
深夜、僕ら四人を乗せた特殊戦用の絨毯機が高高度からその国の上空へと侵入した。そして、作戦地域上空へと差し掛かったところで僕らはためらいなく夜空へと飛び込んだ。
真っ暗な空へと飛び出した僕らの眼下には、広大なフルーツのプランテーション農園が広がっていた。それらは全て、アメティカの企業が出資して作り上げたものだ。
数年前まで、その国は強権的な魔法使い一族によって支配されていた。彼らの統治は苛烈なもので、国民に自由はなく、生存権さえ支配者たちが握っていたという。自由を求める人々が何度か反乱を起こしたこともあったらしいが、その度に魔法の力を持つ支配者たちによって鎮圧されてしまい、夥しい数の人間が粛清の名の下に虐殺された。
けれどある時、そうした惨状が世界に知れ渡った。命からがらアメティカへと亡命した人々が真実を世間に訴えたのだ。当然、アメティカは自国のすぐ近くで起きている悲劇と惨劇を座して傍観することなどしなかった。その国の実情を知った議会はただちに軍の派遣を決定し、三日後には最初の部隊がその国へ展開した。その後の流れはいつも通りだ。アメティカ軍は支配者を打ち倒し、人々を解放した。そして戦後、自由と平等を掲げる新政府が樹立すると、アメティカは戦争で荒廃した国土の復興と発展のために様々な支援を行った。支援は官民一体となって行われ、そのプランテーション農園もそうしたものの一つだった。
元々、この国は小さいながらも世界有数のフルールの生産地だった。そこで解放後の経済支援の一環として、アメティカの大企業がこうした農園を幾つも作った。現地の人々を雇用して仕事を与え、賃金を支払うことで、この国の人々が少しでも早く豊かになれるよう手伝いをしているのだという。
僕は暗い空から、整然と木々の連なる農園の中に設定された着地地点へと向けて降下していった。頭を下にした姿勢で、叩きつける風を読みながら両腕や足を広げたり閉じたりして落下地点を目指す。後は高度に合わせてマントが勝手に落下速度を調整してくれるので、地面が近くなったら頭を上にして、足からそっと着地すればいい。コツはマントにかけられている浮遊の術が切れるタイミングを見計らうこと。慣れないうちは少し難しいが、何百回と繰り返し訓練を重ねてきた僕にはそれを難なくこなすことができた。
地上と感動の再開を果たした僕は素早く周囲の状況を確認してからマントを脱ぐとバックパックの中へ押し込んだ。それからチームと合流する。今回の任務に選ばれたのはいずれも高度な訓練を受けた歴戦の兵士たちばかりだったので、着地地点のずれはほとんどなかった。あっという間に集合した僕らは、標的の潜んでいる地点まで二手に分かれて進むことにした。実行部隊の中で一番の新米だった僕は、部隊の最先任であり指揮官でもある先生と一緒に行くことになった。
「あの、先生。どうして今回の任務は隠密なんでしょうか」
果物の木々が整然と立ち並ぶ、甘酸っぱい空気の漂う農園を進んで行く先生の後について行きながら、僕はふと気になってそう尋ねた。
考えてみれば、妙な話だと思ったのだ。今回の標的は以前この国を支配していた魔法使い一族の生き残りだという。その人物は絶対的な魔法支配主義者であり、これまで新政府に対して何度もテロ行為を繰り返しているらしい。恐らくは現政権を瓦解させ、自身が再び権力の座に就くことを目指しているのだろう。
けれど、となれば標的はテロリストであり犯罪者ということになる。ならば、何故こんなコソコソと暗殺などする必要があるというのか。
その上、僕らは今回、現地に一切痕跡を残すなというオーダーも受けていた。
これが妙だ。
僕らアメティカ軍の兵士が世界中で戦っているのは、悪の魔法支配主義者を倒して人々を解放するためだ。当然、僕は今回の任務もそのためのものだと思っていた。だから、テロリストを倒したのが僕らアメティカ軍であることを隠そうとするような任務内容に疑問を覚えたのだった。
先生は僕が訊けば、たとえそれがどんなに馬鹿げた質問だったとしても必ず答えてくれた。物分かりの悪い僕がきちんと理解するまで、幼い子供に言って聞かせる母親のように辛抱強く教えてくれた。だから、その時も少し考えれば分かりそうなことをわざわざ口に出して訊いた僕へ、先生は呆れもせずに教えてくれた。
「そうだな。理由は幾つかある」
微笑みを浮かべながら振り向いた先生はそういうと、右手の人差し指をぴんと立てた。それが僕になにかものを教える時の、先生の癖だった。
「一つは、ここが世界でも有数のフルーツの生産地だということ。一つはこれらの農園を経営しているのがアメティカの企業であること。一つは、私たちが存在すら秘匿されている極秘部隊だということ。そして最後が、この話を持ち掛けてきたのが国家経済会議に名を連ねている高官だったということ、だな」
先生はすらすらとそれだけの理由を並べ立てると、ちらと僕の方を見た。僕の表情から、僕がちゃんと話についてきているかを確認したのだと思う。
「分からないか」
僕の顔を見た先生は案の定、といったように小さく笑ってから説明を続けた。
「普通、テロ関連の話なら国家安全保障会議のお偉いさんが持ってくるものだ」
言いながら、先生は国家安全保障会議とは他国からの攻撃やテロからアメティカを守る方法を考えて決定するための集まりで、経済会議とはアメティカの経済政策を考えるための集まりだということを教えてくれた。それによると、軍に命令を出すのは普通、国家安全保障会議の役割であるらしい。
「じゃあ、今回の標的はテロリストじゃないってことですか?」
「いや。良からぬことを企んでいる連中がいるのは確かなのだろう。そして、そいつらはそれなりの勢力を保持している。でなければ、経済会議の賢人方も道理を曲げてまで私たちに話を持ち掛けてなど来ない。ただの犯罪組織程度なら現地の軍なり、警察なりに圧力をかければ済む」
つまり、今回の相手は現地の軍や警察だけでは対処しきれない相手というわけかと僕は納得した。
「ただし、その連中について安全保障会議は国防上の脅威ではないと判断された。放っておいても我が国の安全は脅かされないとな。しかし、経済的な観点からみれば早急に対処すべき、差し迫った問題であると経済会議は考えた」
そこで言葉を切った先生が僕を見る。しかし、僕にはまだ話が見えていない。
「では。ここまで分かったところで先ほど挙げた理由を一つずつ考えてみよう」
先生は僕に何かを教える時。必ず一度、僕に考えさせる。僕の答えが正解であれ、不正解であれ、その方が覚えも早くなるからだという。だから、僕は必死で考えた。
「一つは、ここが世界でも有数のフルーツの生産地だということ」
たとえばバナナやマンゴーだなと、僕の思案を後押しするように先生は先ほど挙げた理由を一つずつ繰り返してゆく。
「一つは、これらの農園は全てアメティカの企業によって経営されているということ。つまり、アメティカ企業の持ち物だというわけだ」
僕は「はい」と頷いた。先ほどもいったが、解放戦争後の経済支援の一つとして、アメティカの大企業がこの国に投資して大規模なトロピカルフルーツのプランテーション農園を作ったのは有名な話だ。おかげでこの国の人々は仕事と賃金を得た。代わりに、僕らアメティカ国民はスーパーでフルーツを安く買えるようになった。お互い、いい事づくめのように思えるのだが。
しかし、そういった僕に先生は曖昧な笑みを作った。
「そうかもしれない。だが、もしもこの国の人たちがもう少し高い値段でフルーツを売りたいと思っていたらどうする」
「それは、まあ。ものを売る商売をしている人は誰でもそう思うのではないですか?」
聞き返した僕に、先生は薄く笑う。
「それはまあそうだが。たとえば、今はバナナ一つが一セントで買えるとする。これが一ドルになったら、困るのは誰だ?」
「一気に百倍値上げですか」
そんなことあるのかなと呟いた僕に、先生はあくまでものの喩えだと釘を刺した。
バナナが値上がりすると困るのは誰か。単純に考えれば、この農園からバナナを仕入れている業者だろう。それに、最終的にバナナを買うことになる僕ら一般市民も。
「そうだ。そして値段が上がれば、その分売れなくなる。すると業者は仕入れる量を減らさねばならなくなる。そうなれば、今度は作ったバナナが売れなくなってこの農園も困ることになる」
つまり、バナナの値段が上がると困るのはこの農園の持ち主と、それを仕入れている業者と、そして最後にスーパーの店頭でそれを手にする我々アメティカ国民ということだ。
先生の説明に、僕はなるほどと頷いた。確かに、これまで一セントで買えていたバナナが一ドルになったら買う機会は減るだろう。みんながそうやってバナナを買わなくなってゆけば、それを仕入れていた業者は仕入れる量を減らす。そうしてバナナが売れなくなれば、この農園を作るために何億ドルという大金を投資した企業も困るだろう。
と、そこまで考えたところで。
「あの、つまり、バナナの値段が上がって困るのはアメティカってことですか」
思いついたことを口に出した僕に、先生は深い笑みを浮かべて正解だというように小さく頷いた。そして続ける。
「では。次にどうなればバナナの値段が上がるかだ」
方位を確認するために空を見上げながら、先生は訊いた。
「我々が店でバナナを買う際に支払っている金額は、原価に店の利益分を上乗せした価格になる。仕入れる側にとっての原価とは商品そのものの値段に加えて、輸送や保管に掛かった費用も含まれるのだが、まあ、この辺のややこしいし、今回の話には余り関係ないことだから省略するとして。バナナの原価のみに限って言えば、それを作るために掛かった費用はこの農園を運営する費用、土地代や肥料代、そしてもちろん、ここで働いている労働者へ支払う賃金などが含まれる」
ここで先生はもう一度、僕をちらと見た。僕が話について来れているかを確認したのだろう。僕が頷いたのを見て、先生はよろしいと話を続けた。
「そこで先ほどの話に戻る」
「この国の人たちはバナナをもっと高く売りたいと思っている、という話ですか」
「そうだ。だが、彼らは別にバナナの取引価格をあげたいと思っているわけじゃない。自分たちの給料、つまりは賃上げを要求しているわけだ」
「なんだ。そんなことですか」
僕は拍子抜けしたような気分になった。ここまでのややこしい話から、一気に話が単純になった気がした。労働者の賃上げ要求なんて別に珍しい話じゃないからだ。アメティカじゃ、賃上げを求める労働者たちが定期的にデモやストを起こしている。それは彼らの権利であり、そして雇い主には彼らとの交渉に応じる義務があるからだ。しかし、賃上げを求められたからといって、どうして僕らが出張ってくることに繋がるのだろうか。
「ここがアメティカじゃないからだ」
首を捻っている僕に先生が答えた。
「アメティカの法律もここじゃ関係ない。この国では労働者からの賃上げ要求に企業が応じる義務がない。先ほど言ったように、労働者へ支払う賃金もバナナの原価に含まれるのだから、賃金が上がればバナナの値段も上がってしまう。それでは困るアメティカ企業が、義務でもないのに彼らとの交渉に応じるはずがない」
それに僕は酷い話ですねと他人事のように言った。先生も「そうだな」と他人事のように頷いていた。
「そこで、この国の人々、の一部が、少々過激な手段を用いて企業と交渉しようとしたとする」
世間話をするような口調のまま、先生は続けた。
「その為に、旧支配者一族の魔法使いを担ぎだしたとする」
「それは」
仮定形で語られる先生の言葉に、僕は唖然とした。ようやく。本当に今さら。その時になって初めて、先生がなんでこんな話を始めたのかを理解したからだった
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