第3話 今日
「不田房さん、何か言ってましたか」
「別に」
「……本当に?」
信玄餅を摘みながら尋ねる鹿野に、宍戸は再び首を横に振る。
「申し訳ながっては、いた」
「はあ」
「あとね、来月あいつ入籍する」
「……はあ」
返す言葉が、特にない。鹿野素直にとっての不田房は講師で、師匠で、相棒で、もしかしたら年の離れた友人で、彼に対して恋愛感情を抱いたこともなければ、今までとは違う関係を構築したいと考えたこともない。それなのに、半年前のあの日。不田房が急に、『結婚』などという訳の分からないことを言い出すから。
演出家と演出助手としてともに活動をしているあいだに、不田房にも、鹿野にも、恋人がいたことはある。お互いに相手を紹介したこともあるし、別れてしまった報告がてら朝まで飲み明かしたことだってある。鹿野にとって不田房は、そういう相手だった。恋の相手ではなかった。愛の相手ではあったかもしれない。愛がなければ10年も一緒に仕事なんかできない。
結婚は。
鹿野にとっては恋でも愛でもない。ただの契約だ。
不田房がそれを持ちかけてきたのが、悲しかったし、怖かった。
「そんなに興味もないですが、お相手は?」
念の為尋ねた鹿野に、宍戸がひとりの女性の名前を口にする。鹿野が「もう仕事無理です」とだけ言い残して現場を去った後、演出助手として不田房の隣に座った女性の名前だった。
「どうっしても演助と結婚したいんすか、あん人は……」
「ていうか逆」
手元のコーヒーをひと息に飲み干した宍戸が、短く言った。
「逆?」
「あの子に、付き合ってくれってずっと迫られてた、不田房は」
「……それ、私と何か関係ありますか?」
不田房栄治は、あれでなかなか恋多き男だ。モテるし、公演の度に恋人が変わる姿を鹿野は10年側で眺めていた。
「鹿野覚えてない? 3年前にさ」
「『ユダ』の出演者のお友だちでしたよね。打ち上げで会いましたよ」
「……そう」
女性俳優が多く出演した不田房栄治作演出の舞台『ユダと鉤十字の女』。その出演者の友人として劇場に現れ、打ち上げにまで参加してきた女性。
その女性と不田房が、入籍する。
鹿野には何も関係ない。
「疲れるんだって」
「は?」
「だからその子といると疲れるって」
「それは……知らんですよ」
眉を寄せる鹿野に「まあな」と宍戸が苦笑いを浮かべる。
「確かに関係ない話だし、知らんよな」
「はい」
「まあ結局、付き合ってた──つもりだったわけよ、相手のお嬢さんは」
「はあ」
「でも不田房はそんなつもりなかった」
「へえ」
「で、3年目で親に会ってほしいって言われて。結婚したいって」
「……それ、私と何か関係ありますか?」
「ないけど」
ないんじゃないか。怒るのも馬鹿馬鹿しくなってきて、鹿野は溜息を吐く。
「相手の子ぉと結婚したくなくて、私と結婚しようとしたんですか、あん人は?」
「付き合ってるつもりはなくて、結婚もしたくなくて、でもどうしても契約するなら鹿野がいいって思ったんだって」
「アホじゃ」
考えるより先に言葉が出ていた。宍戸が薄く笑った。
「アホだよなぁ」
「ほんとに」
「で、一応来月入籍で、年明けに式って言ってたかな?」
「へーえ」
「これ招待状ね」
白い封筒をテーブルの上に滑らせて、宍戸は席を立った。
「来てもいいし、来なくてもいいし」
「はあ」
「それとこれは別件。今月末から始まる稽古場、演助が足りてない」
「え?」
白い封筒の隣に、一枚のチラシがトンと置かれる。
「俺は舞台監督で入るんだけど、鹿野がもし良かったら手伝いに来てほしい」
「うちもう、演劇やるつもり、ないんですけど」
「それならそれでもいい。でもさ鹿野の10年……俺はちょっともったいないと思うよ」
それじゃ行くわ、と鞄を抱える宍戸を玄関まで送り、鹿野はチョッパーとともにリビングに戻る。
白い封筒、おそらく結婚式の招待状。それから綺麗に印刷されたチラシ。公演時期はそれこそ年明け──不田房の結婚式とも、おそらくかぶっている。
「不田房さんも宍戸さんも、うちのことなんも分かっとらんなぁ」
封筒をゴミ箱に放り込み、チラシをくしゃくしゃと丸めながら鹿野はチョッパーに語りかける。
「うちはさぁ……不田房さんと『演劇』やっとるんが楽しくて……」
だから不田房は、鹿野にプロポーズなんかするべきじゃなかった。たとえ形だけだったとしても、そんなことするべきではなかった。逃げたいならただ黙って鹿野の手を掴んで逃げれば良かった。何もかも捨てて。誰の目も届かないところまで、ふたりでだったら逃げられた。
「しょうもな。ああ、そろそろ仕事探さなお父さんにも怒られるなぁ……」
信玄餅の空き箱を捨て、宍戸が使ったコーヒーカップを流しに運びながら鹿野は呟く。
別に少しも、後悔なんかしていない。
こなごな。 大塚 @bnnnnnz
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