第2話 半年前

 事の始まり、もしくは終わりは、そう──半年前。次の公演の打ち合わせをするために、不田房ふたふさ栄治えいじ鹿野かの素直すなおは新宿にある行き付けの喫茶店で顔を合わせていた。ふたりの仲は長い。鹿野が大学生だった頃に、『演劇講座』という謎の講座が唐突に設立され、その講師として招聘されたのは不田房栄治だった。当時の鹿野は演劇になどまるで興味がなく、授業を受けるようになったのも本当に偶然だった。「講師がイケメンだから受講したい」という同期の学生に引き摺られて行った先で、鹿野は不田房に出会った。10年前。鹿野は子どもだったし、不田房も若かった。『演劇講座』は日本国内の演劇文化の成り立ちや、海外の演劇界との繋がりについて学ぶ座学を行う傍ら、「実際に舞台に立ち、演じる」「スタッフとして舞台作りに関わる」という経験を得るために年度末に大学構内にあるホールで公演を行うことを目標に動く、本当に奇妙な授業だった。鹿野は端から公演になど関わる気持ちはなく、キャスト、スタッフのオーディションが始まった時点で授業そのものを捨てようとしていたのだが、何の因果か喫煙所で不田房栄治本人に捕獲され、あれよあれよという間に演出助手──不田房の相棒として『演出班』と書かれた長机の前に並んで座り、助手の名に恥じぬ様々な仕事をするようになり、卒業後も、不田房と一緒に、『スモーカーズ』の相棒として、演劇、を、


「鹿野さぁ、俺と結婚しようよ」


 不田房の声を聞いた瞬間、呼吸が止まった。目の前にいる男が、10年という決して短くはない年月をともに駆け抜けた相棒だと、信じられなくなった。

 今は、次の公演の打ち合わせをするための時間ではないのか。火の点いていない煙草を取り落とした鹿野の手を強く掴み、不田房は繰り返した。


「結婚したい。無理かな?」

「な……」


 なんでそんなこと言うんですか、不田房さん。


 愛想笑いもできなかった。不田房のことを、初めて怖いと思った。


 結局、その日は打ち合わせどころではなかった。鹿野は逃げるように喫茶店を飛び出し、夜になって不田房から送られてきた「急にごめん」というメッセージを読んですぐに削除した。自宅に──当時鹿野は実家から然程離れていないマンションでひとり暮らしをしていた──いるのもなんだか恐ろしくて、実家に転がり込んだ。大学で民俗学の教授をしている父・鹿野迷宮は青褪めた顔で飛び込んできた娘・素直に詳しく事情を聞こうとはしなかったが、

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