こなごな。

大塚

第1話 今日

 空がひどく高い、秋の日だった。掃除、飼い犬であるチョッパーの散歩、それに洗濯を終わらせて庭に立っていた鹿野かの素直すなおを、訪ねてきた者がいた。


「……宍戸ししどさん」

「よ」


 すらりとした長身に、見慣れた黒いTシャツにレザージャケット。色褪せたブラックデニムにスニーカー姿のかつての仕事仲間・宍戸ししどクサリが、生垣の向こうでひらひらと手を振っていた。


「わあ、びっくりした。どないしたんです。仕事ですか?」

「この辺に俺の仕事場はないだろ。おまえの顔見に来たんだよ、鹿野」


 丸眼鏡の奥の目を細めて、宍戸が小さく笑う。濡れたままのシャツを手にした鹿野は大きくまばたきをし、「なるほど」とどうにか絞り出した。そう。宍戸の言う通りだ。ここは鹿野の実家で、都心部からは少し離れた都内の端っこに位置していて、周りには劇場もないし、稽古場やスタジオもない。たしかに、宍戸の仕事場はこの辺りにはない。宍戸クサリはだ。そして鹿野素直は以前──という仕事を、していた。


 取り敢えず、宍戸に家に上がってもらうことにした。今日のスケジュールを尋ねると「16時から池袋で打ち合わせ」とのことで、


「じゃ、30分だけ。コーヒー飲んでってくださいよ」

「そのつもり」


 大きなショルダーバッグを下ろしながら、宍戸が応じた。人懐っこいラブラドール・レトリバーのチョッパーが、宍戸に大喜びで纏わり付いていく。


「宍戸さん、猫派じゃなかったですっけ」

「犬も好きだよ。仕事柄ちゃんと構ってやれないから、飼わないだけで」

「なるほどです」


 リビングに宍戸を案内する。普段は鹿野素直と、その実父・迷宮めいきゅうのふたりだけで過ごすリビングだ。迷宮が客人を連れてくることは滅多にないし、鹿野も以前の仕事を辞して以来父親以外の人間に会う機会がほとんどなくなっていた。


「コーヒー、と……なんか食べるもんあったかな……」

「いいよ、気にしなくて。これお土産」

「おお!」


 ショルダーバッグに手を突っ込んだ宍戸が、無造作に小さな箱を取り出す。信玄餅だ。


「先週まで山梨で芝居やってて」

「へえ! いいですねぇ、巡業ですか?」

「いや、都内と大月の二箇所だけ。大月の芸術監督が──不田房ふたふさと仲良くてさ」

「……ああ」


 。懐かしい名前だった。別れてまだ半年も経っていないが、二度と会うことはないと思うと、堪らなく懐かしい響きだった。

 不田房ふたふさ栄治えいじ。演出家で劇作家。演出助手だった頃の鹿野の、上司で、師匠で、唯一無二の相棒だった男。


「不田房さんと仲良しってことはアレですか、やっぱ、のファン?」


 『スモーカーズ』とは、不田房栄治が主宰している演劇ユニットの名前だ。鹿野の問いに、コーヒーカップを手にした宍戸が小さく首を横に振った。


「もうその名前は使ってない」

「え、あ、……え?」

「演出家不田房栄治、名義で活動してるよ、今は、あいつは」


 信玄餅を開ける手が止まる。足元にお座りをしておこぼれを待つチョッパーの頭を軽く撫でてやり、「どういうことですか?」と鹿野は眉を下げて笑みを浮かべる。無精髭の浮いた顎をざらりと撫でた宍戸が、「どういうこと」と平坦な声で繰り返した。


「どうもこうも……」

「あ、お叱りは勘弁ですよ。この半年、ほんっとに色んな人に怒られたんだから」

「別に俺は、説教したくてここに来たわけじゃねえよ」


 鹿野の手から信玄餅の箱を取り上げ、包み紙を無造作に剥がしながら宍戸が呟いた。


「大人と大人が、話し合って決めたことなんだから」

「そうですよ」


 声が、震えそうになる。まだ未練があるのか。あの男に。あの業界に。

 鹿野素直は、もう演劇をではないというのに。

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