佐藤さんと夢見心地
隣の席に佐藤さんがいる。
僕はまだ信じられない思いでいた。
ついさっきまで左隣の席にいた佐藤さんが、今度は右隣の席になった。
これは何なんだろう。もちろん偶然だけど、それ以外に何かがあるはずもないんだけど、不思議な気持ちだった。席替え前の浮ついた気持ちがぶり返してきたようだ。
妙だな。
また佐藤さんの隣だなんて厄介事が増えそうなのに、憂鬱だって思えない。
予鈴が鳴り終わると、佐藤さんは教科書とノートを取り出した。
「教科書も変わったから、覚えるのが大変だね」
そう言いながら次の授業の教科書を検めている。
表紙に記された『地学』の文字は僕にとっても見慣れない。佐藤さんが右隣にいるのも見慣れない。
「ね、山口くん。地学ってどんなことやるのかな」
不意に佐藤さんがこっちを向いた。
僕は驚いてしまって、とっさに引き出しから教科書を取り出す。そして震える指でページを開くと、目を逸らしながら答えた。
「教科書に書いてある通りじゃないかな」
「そっか。私、まだ全部目を通してないんだ」
佐藤さんは相変わらずのんきなものだ。
「あんまり難しくない授業だといいなあ」
彼女にとっての難しくない授業ってどんなものだろう。
どうせまた授業中に指されて答えに詰まったり、ノートを取るのさえもたついてくれたりするんだろうな。迷惑だ。
僕は深呼吸をした。
彼女には聞こえないよう、静かに呼吸を整えた。
それから普段通りを装って告げる。
「今度からは当てられても大丈夫なように、予習くらいはしといたら」
すると彼女は目を瞬かせた。すぐに頷く。
「あ、うん。そうだね」
「そうだよ。もう三年生なんだし、佐藤さんに当たる度に授業がストップしたら困るだろ」
ごく素っ気なく言ったつもりが、僕の声はやっぱり浮ついている。
本当に妙だ。何をそわそわしてるんだろう。
「そうだよね。前は山口くんにも助けて貰っちゃって」
佐藤さんは佐藤さんで、このタイミングで以前のことを口にする。
あの時のは単なる気まぐれ、それ以外の何物でもない。なのに彼女はしつこかった。
「まだお礼してなかったよね」
そんなことまで言い出したので、僕は顔を顰めた。
「気を遣わなくていいよ」
「ううん。だって恩返ししたいの」
佐藤さんは胸を張る。
「山口くんが当てられた時、今度は答えを教えてあげられるようになりたいんだ」
正直、できっこない恩返しだと思った。
僕が先生に指されて、その上答えに詰まってる状況じゃないとだめだ。僕がわからない答えを佐藤さんが知っていて、それをわざわざ教えてもらうだなんて、そうそうないことだと断言できる。
だからって、わざとわからないふりをするわけもいかない。
佐藤さんが教えてくれる答えなんて絶対間違ってそうだし、信用できないからだ。
僕は顔を顰めたまま、彼女から視線を外した。
「まあ、頑張ってね。佐藤さん」
「うん、頑張るね」
右隣の席では佐藤さんの声がする。
今までとは違う方向から聞こえる。
「山口くんとまた隣同士になれてよかったなあ」
ごく何気ない調子の言葉が続き、僕の肩は不自然に強張った。
「……え」
左隣には陽が射し込む窓がある。真昼の日差しがじりじりと僕に降り注ぎ、熱いなと不意に思った。
「どうして、そう思う?」
彼女の答えなんてわかり切っているのに、僕はあえて聞き返す。
もしかしたら予想と違う回答が返ってくるかもしれない――なんて、訳のわからない思いを抱きながら。
そんなことあるはずがない。
そもそもどんな回答だったらいいと思ってるんだろう、僕は。
そして佐藤さんは、僕のもやもやする思いも知らずに答える。
「お礼の機会ができたから。恩返し、絶対したかったんだもん」
やっぱり予想通りの回答だった。
進級しても佐藤さんは何も変わってなくて、僕は夢を見ているような気分になる。
これは夢なんじゃないだろうか。どちらかと言えば悪夢。やけにどぎまぎして、汗を掻いて、呼吸が苦しくなるような悪い夢を見てるんじゃないだろうか。
でも現実として席替えは終わり、佐藤さんはまた僕の隣にいる。
そして僕は――。
僕は、さっきからそわそわしてばかりだ。憂鬱な気分にもなり切れないまま、窓際の席の日射の強さに春のうちから悩まされている。
地学の授業が始まって少し経つと、右隣の席からは寝息が聞こえてきた。
横目で窺うと、佐藤さんは机に突っ伏していた。目を閉じ、赤い唇をほんの少しだけ開けている。
窓からの陽射しがちょうどいい暖かさだったんだろう。一番後ろの席は先生の目につきにくくて気も緩む。そして地学の教科書は彼女にとって、見知らぬ単語でいっぱいだ。
僕は静かに溜息をつく。
この分じゃ彼女からの恩返しはいつになるのやらだ。期待はしないでおこう。元からしてないけど。
ただ、こちらを向いた寝顔があまりにもあどけなく見えたので、見ないようにするのに苦労した。気まぐれに教科書の陰から覗き見て、その度に呆れたくなった。
きっと彼女はいい夢を見ているに違いない。羨ましい限りだ。
僕なんてさっきからどぎまぎして、暑苦しくて、気分が浮ついてしょうがないのに。
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