佐藤さんと席替えの日

 四月が来た。

 学年と教室が変わってしまったことを除けば、特別なことは何もない。

 僕らは何の支障もなく三年生になり、これからの一年間を受験、あるいは就職活動に向けて邁進することになるわけだ。優等生ぶるつもりもない僕でも、そろそろ勉強に本腰入れなきゃなと考えてはいる。

 志望校は決まった、あとは――。

 何となく浮ついてるこの気持ちだけ、どうにかしなくては。


 クラスメイトの顔ぶれも担任教師も、何も変わっていなかった。

 なのに僕は落ち着かない思いで今日のホームルームを迎えている。

 黒板に貼り出されているのは名前のない座席表だ。これからあの紙に、クラスメイトひとりひとりの名前が書かれていく。

 教卓の上には担任お手製の紙箱が置かれている。真横に開いた丸い穴に手を突っ込んで、三角に折り畳まれたくじを引く。毎回、席替えは厳正なるくじ引きで行われていた。

 つまり全ては運次第ってことだ。


 僕はみんなが次々とくじを引くのをぼんやりと眺めている。

「山口くん、席替え楽しみだね」

 隣の席の佐藤さんが浮かれている。

 頬杖をついた僕が視線だけをそちらに向けると、にこにこと笑う彼女がいた。

「私、次は窓側の席がいいな」

「……どうして?」

 僕は思わず聞き返す。

 彼女がどこを望んでいようと、別にどうだっていいんだけど。

「だって窓側の席は暖かいじゃない」

 単純明快な答えが返ってきて、ほら、と思う。


 ほら、どうだってよかった。

 佐藤さんの言うことなんていつだってどうでもいいことばかりだ。

 今は春だからいい。これから夏が来たら直射日光を浴びるだけだっていうのに、窓際の席なんて座りたがる奴の気が知れない。


「あ、あと、一番後ろの席がいいな。窓側の一番後ろ」

 佐藤さんはのんきに続けた。

 その理由は聞かなくてもわかる。一番後ろの席なら、授業で当てられにくいと思っているからだろう。

 無意味だと思うけどな。教科担当の中には、出来のよくない佐藤さんを集中的に当てたがる先生もいるくらいだ。どこに座ったってきっと同じで、隣に座る奴は苦労させられることだろう。

 僕だってこれまで苦労してきたんだ。

 佐藤さんが隣の席で、いいことなんてなかった。

「ね。山口くんはどこの席がいいと思う?」

 彼女は、相変わらずだった。相変わらず浮かれている。

 何がそんなに楽しいのか、はしゃいだ様子で僕に話しかけてくる。

「別に……」

 答える僕の、気のないトーンにも気づいてないんだろう。

「どこだって同じだよ」

 変わり映えしない顔ぶれの中じゃ、どこに座ったって同じだ。


 僕は佐藤さんみたいに隣の席の奴に迷惑なんてかけないし、お節介を焼いたりもしない。話しかけるにしてももうちょっと空気を読む。

 誰が隣になったって同じだ。

 だから席替えなんてどうでもいいし、気乗りもしてない。


「そうかなあ」

 佐藤さんが異を唱えようとしたので、僕は席を立つ。

 ちょうどくじ引きの順番が来ていた。黒板に貼り出された座席表は既に半分ほどが埋まっていて、担任が僕を手招きしている。

「おーい、山口の番だぞ」

「頑張ってね、山口くん」

 教卓へ向かう僕の背に声援が聞こえたけど、溜息しか返しようがなかった。

 何を頑張るっていうんだろう。

 くじを引けばあの席ともお別れだ。佐藤さんとも話すことはなくなるだろう。今まで特に親しかったわけでもないし、同じクラスとは言え他に接点もないから、これで彼女に煩わされることもなくなる。


 箱に手を突っ込んで、三角のくじを引いた。

 開いた中に記されていた数字は座席表の隅を指していた。

 一番窓側の列の、一番後ろの席。

 奇しくも佐藤さんがなりたがっていた席だった。


「いいなあ、山口くん」

 入れ替わりで席を立った佐藤さんが、羨ましそうな声を上げる。

 だけど僕は何も言えなかった。狭い通路を擦れ違った彼女の、野暮ったい長さのスカートが揺れるのを見送った。

 彼女は真っ直ぐ教卓に向かうと、担任に笑いかけてから箱の中へ手を突っ込む。

 引いたくじの番号を彼女が確かめ、担任が確かめ、担任だけがにやっとした。佐藤さんは、気まずそうな苦笑いを浮かべた。

 先生が座席表に佐藤さんの名前を書く。

 教卓の真正面右列、一番前の席だ。佐藤さんの席は最前列だった。つまり――。


 くじ引きは滞りなく終わり、座席表が全て埋まると、僕らは新しい席に移動させられた。

 今度の隣の席には柄沢さんという、比較的おとなしく、成績の良い女子生徒がいた。佐藤さんとは大違いだ。眼鏡をかけた柄沢さんの横顔をちらっと見てから、僕は溜息をつく。

 少なくともしきりに話しかけられたり、授業中に答えを教えてやる必要はなくなりそうだ。


 休み時間を迎えた教室で、僕は立ち上がる気力もないまま一番後ろの席に座っていた。

 ここは陽射しが眩しい。予想通り、夏場にはじりじりと暑くなることだろう。

 ここから眺める黒板は遠い。字が見えないほどじゃないけど、黒板も、教壇も、教卓も、ずいぶん遠く感じると思った。

 教卓のすぐ目の前にある佐藤さんの席も、遠い。僕の席からじゃ彼女の背中しか見えない。制服の背中に落ちるひとつ結びの髪しか見えない。表情なんてもちろん見えやしない。

 彼女は数人の女子生徒と何か言葉を交わしているようだった。

 僕に見えたのはその女の子達の笑顔だけで、佐藤さんの顔は、見えなかった。


 奇妙な気持ちだった。

 佐藤さんが遠い。

 これまでだって近かったわけじゃないけど、彼女は隣の席にいた。

 隣の席で、僕にお節介を焼いたり、話しかけたり、お菓子をくれたりしていた。隣の席で彼女が、先生に指されて言葉に詰まったり、にこにこしながらくだらない話をしたり、一つ結びの髪を結い直したりするのを見ていた。

 でもこれからは、佐藤さんは新しい隣の席の奴に――僕じゃない奴にお節介を焼いたり、話しかけたり、お菓子をあげたりするんだ。彼女が授業中に詰まっても助けてやるのは僕じゃない。彼女がくだらない話を持ちかけるのも僕じゃない。彼女が髪を結い直すのを間近で見ることももうない。


 ――だからどうした、馬鹿馬鹿しい。

 机に突っ伏し、目を閉じる。

 真っ暗な世界で思う。単に気持ちが切り替わっただけじゃないか。大学受験に向けてより授業に集中できる環境になったって、喜べばいいだけだ。佐藤さんの隣じゃなくてよかったって思えばいい。喜ぶべきなんだ。

 どうでもいい。失くしたものなんて、何もないじゃないか。


 がたん、と大きな音がしたのはその時だ。

 椅子が倒れるその音は何度か聞いた。隣の席で。今も、隣から聞こえた。

 はっとした僕は顔を上げ、右隣の席を見る。

 そして、

「あ、ごめん。起こしちゃったかな……?」

 気まずげな表情をした佐藤さんが、倒れた椅子を直す姿を見つけた。


 その時僕はどういうわけか、頬がかっと熱くなるのを覚えた。

 だけどそれを悟られたくない気持ちもあって、慌てて顔を背ける。

「いや、寝てたわけじゃないから」

「そっか。でも、びっくりさせてごめんね」

 佐藤さんは言って、その後でもう一言付け加えた。

「また隣の席だね、山口くん」

「――え?」

 再び彼女に視線を戻す。

 右隣の席に座った佐藤さんは、自分の鞄をその席の横に引っかけ、にっこりと笑った。

「これからまたよろしくね。何かと迷惑をかけるかもしれないけど」

「……」

「あ、でも一番後ろの席でよかった! 授業で当てられる回数、減るかも」

「……」

「だからきっと、前よりは山口くんに迷惑かけないと思うんだ。うん、絶対」

「……佐藤さん」

 ようやく、喘ぐように僕は彼女を呼んだ。

「なあに?」

 彼女が小首を傾げる。

「あの、佐藤さんはどうして……ここに?」

 一番前の席じゃなかったのか、という台詞は続かなかった。

 くじ引きでそう決まったはずなのに、どうして僕の隣の席にいるんだろう。僕は何だか驚きすぎて、信じられない思いで、胸が苦しいくらいだった。

「柄沢さんに替わってって頼まれたの。目が悪いから、前の席の方がいいんだって」

 佐藤さんが口にしたのは、当初僕の隣の席だった女子生徒の名前だ。確かに眼鏡をかけてる子だった。

「だから私が、代わりにこの席」

 そう言って佐藤さんは、僕の右隣の机を軽く、叩いた。

「これからまた仲良くしてね、山口くん」


 僕は。

 僕は、別に喜んでなんかいない。

 喜んじゃいないけど――仲良くしてねと言われたら邪険にもできないだろう。


 いや、どうでもいいんだけど。

 別に佐藤さんのことなんて、本当はどうでもいいんだ。

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