隣のあの子とセンチメンタル

 教室の窓から見える外の景色がめっきり春めいてきた。

 桜の木が強い風に揺すられている。つぼみは遠目にも膨らみつつあるのがわかり、もうじき咲き始めることだろう。

 僕は溜息をつく。


「今日は風が強いね、山口くん」

 佐藤さんは昼休みを外で過ごしたらしく、結んだ髪が風に乱され、ぼさぼさだった。

 隣の席に着いた彼女は肩で息をしている。校庭で鬼ごっこをしていたんだそうだ。全く、高校生にもなって子供っぽいことをする。

 髪ゴムを解き手で髪を梳く仕種を、僕は横目で盗み見ている。

「校庭の桜、もうすぐ咲きそうだったよ。春なんだね」

「そうだね」

 気のない返事が口をついて出る。

 僕の反応には構わず、佐藤さんは長い髪を結い直している。他の髪型を試す気はなさそうな、慣れた手つきで一つに結んだ。

「桜、咲いたらきれいだろうね」

 彼女が当たり前のことを言ったから、思わず少し笑ってしまった。

「そりゃそうだよ。去年だってそうだったじゃないか」

 桜なんて全部同じだ。毎年同じように咲いて、毎年同じようにきれいだ。

 きっと今年も、あの淡いピンク色の花びらが一面に咲いたら見応えがあるに違いない。

「そうだけど」

 髪を結び直した佐藤さんも、笑いながら反論してきた。

「今年の桜がどのくらいきれいかなんて、見てみないことにはわからないよ」

「きれいじゃないことなんてないだろ」

「うん、そう思う。でも、去年の桜と今年の桜は、絶対違うと思うんだ」

 佐藤さんは、絶対、という言葉に力を込める。

 僕はいつしか横目で見るのをやめ、向き直って左隣の彼女を見つめていた。

 佐藤さんの目が見ているのは、教室の窓から覗く外の景色、校庭の桜のつぼみだ。


 去年と今年の桜は、確かに違うのかもしれない。

 僕も今、そう思った。

 佐藤さんの横顔越しに見る桜の木は、強い風に揺られて震え、心細そうにも映った。


「春が来るね」

 ぽつりと佐藤さんが言った。

 五時限前の騒がしい教室に溶けてしまいそうな声で言った。

「私、春って好きなんだ」

 そうだろうと僕は思う。佐藤さんはいかにも春が好きそうだ。

 春が似合う子だと思ってた。野暮ったさも、地味なところも、だけど時々温かく感じられるところも、佐藤さんはまさに春のような子だって。冬の間にずっと隣の席だったから、余計にそう思えた。

「春なら来るよ。明日で三学期も終わりだ」

 僕はそんなふうに応じた。

「うん」

 佐藤さんはそこで、くるりと僕の方を向く。

 その顔はとびきり嬉しそうに笑っていた。

「春休み、楽しみだね」

「……まあね」

 あんな短い休みでも楽しみだと思えるのか。そういうところも佐藤さんらしいと思った。


 僕は春休みなんてどうでもよかった。どうせあっという間に終わってしまう休みだ。

 おまけに四月からは三年生に進級して、必然的に受験生となってしまう。僕も周りの友人達も、みんなそれぞれに忙しくなってしまう。

 四月になれば、何もかもが今まで通りというわけにはいかなくなる。


「山口くんは楽しみじゃないの?」

 僕の反応から察したのか、佐藤さんは怪訝そうだった。

 こういう時だけ鋭いなと僕は軽く首を竦める。

「いや、楽しみだよ。春からは三年生だしね」

「そうだね。クラス替えないからいいよね。今のクラス、楽しいし」

 はしゃいだ声が左隣から聞こえてきた。

 僕はまた溜息をつく。


 クラス替えはない。

 だけど新年度になってすぐに席替えがある。うちのクラスの席替えは完全くじ引き制だ。佐藤さんとは来年度も同じクラスだけど、彼女とまた隣の席になることは恐らくないだろう。

 これまで散々迷惑を被ってきた彼女の隣の席も、いざ替わってしまうと思うと無性に寂しく感じられた。

 寂しいというより、単に感傷的になってるだけかもしれない。


 多分、感傷的になってるだけだ。

 僕らは三年生になる。学年も、教室も、授業内容も、僕らの置かれる状況も、何もかも変わってしまう。せめてこの席だけは変わらないでいてくれたらと思ったけど、そんなことはあり得ない。

 きっと、変わらないのは佐藤さんだけだ。

 彼女はこの先何年経っても、地味で、垢抜けなくて、野暮ったくて、とろくて、色気のない一つ結びが似合うような女の子のままでいるだろう。僕はその変わらなさに、春みたいな彼女に、何となく縋りたくなっただけだ。


「今年の桜は絶対、去年よりもきれいだよ」

 佐藤さんが目を細めて断言した。

 彼女は決して美人じゃないし、クラスの女子の中では一番地味で子供っぽい。

 だけどこの瞬間の笑顔は妙に眩しく映って、僕の方も目を細めてしまう。

「かもしれないね」

「かも、じゃなくて絶対にそう」

「どうしてそう思う? 何か根拠でもあるの?」

 珍しく頑固な主張に思わず尋ねると、彼女は少し考えてから答えた。

「だって私達、大人になってるんだもん」

 相変わらずの笑顔に、だけど眼差しはどこか真剣だった。

「ちょっとずつ大人になってるの。桜を見る目も去年とは違うよ。きっと、大人になってから見る桜は、子供のままで見ているよりもきれいで、儚く見えると思うんだ」


 僕は思った。

 変わらないものなんて、やっぱり何も、何一つない。

 佐藤さんでさえ子供っぽいままじゃない。少しずつでも、周りよりも遅いペースでも、ゆっくりじっくり大人になってしまうんだろう。もしかしたら今の地味で垢抜けない面影さえ、いつの間にか消えてなくなってしまうのかもしれない。

 変わらずにいられるものなんて、あるはずがない。


「……そうか」

 だから、僕も呟く。

「僕も今年の桜は、特別きれいに咲くと思うよ」

 大人になりかけている僕の目は、今、佐藤さんを見ていた。

 咲き出す直前の桜を背に、笑う彼女を見つめていた。


 見慣れた教室の景色が、もうじき変わる。

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