隣のあの子と模範的ノート

 佐藤さんがノートにペンを走らせている。

 必死の形相で、黒板の内容を書き写している。

 不意にぱきっと微かな音がして、彼女が持つシャープペンシルの芯が折れた。

「あ……」

 途端に佐藤さんはまごまごする。

 ペンをかちかち言わせつつ、どうにか作業に戻ろうと懸命だ。


 僕はその様子を隣の席から眺めている。

 いや、待たされていると言うべきか。

 時は既に休み時間だ。前の授業は日本史で、先生の個性的な字が黒板いっぱいに並んでいた。先生の右肩上がりの筆跡は読みにくいってほどじゃない。

 なのにどうして、佐藤さんはこんなにもノートを取るのが遅いのか。

 休み時間に入っても黒板を書き写しているのは彼女だけだ。他の皆は次の授業に備えて準備を始めたり、教室や廊下で短いお喋りを楽しんでいるっていうのに。


 もう何分待っただろう。

 思わず溜息をつきたくなったけど、その原因がすぐ左隣にいるからやめておく。

「ごめんね、山口くんっ」

 その左隣からは焦った声が聞こえてきた。

 見れば、佐藤さんは不器用な手つきでシャープの芯を詰め替えているところだった。

「ああ、別に慌てなくていいよ」

 僕は言ったけど、もちろん本音じゃない。

 すると佐藤さんは申し訳なさそうにこちらを向く。

「でも……私が写し終わらないと黒板が消せないでしょ?」

「そうだね」

 全くだよ。内心でぼやく。

 なんで僕が日直の時に限ってこんなにもたついてくれるんだか。


 もちろん、彼女がとろいのはいつものことだ。

 だけど早くしないと次の授業が始まってしまう。おまけに次の授業は古典で、教科担当はいつも口喧しい村上先生だ。黒板を消してないときっとねちねち言われるだろうから、急いでもらわないと困る。

 僕なんか授業の時間だけでちゃんとノート取れたけどな。時間が余りすぎて、隣で何かともたつく佐藤さんを観察できたくらいだ。

 どうしてこんなに時間かかるのか、疑問に思って彼女のノートを覗いた。小さな、丸っこい文字がびっしり並んでいて、後から読み返せるのかと他人事ながら心配になった。

 まあ、僕には関係ない。

 日直として黒板消しの仕事があるってことを除けば、関係ない。


 やがてしびれを切らした僕は席を立ち、佐藤さんに告げる。

「時間ないから、黒板消すよ」

「え……う、うん」

 佐藤さんが悲しそうに俯いた。

 内心で、僕は苛立ちを覚えた。

 佐藤さんのこういうところが特に苦手だ。不満があるならはっきり言えばいいのに、黒板を消さないでって絶対に言おうとしない。自分に非があるってわかってるからだろう。


 慎ましいのは美徳でも何でもない。むしろ同情を乞われているようで腹が立った。

 同情するかどうかなんて僕の自由だ。

 佐藤さんの言動にいちいち感情を左右されるなんて、まっぴらだと思う。


 だから僕は彼女に言ってやる。

「ノート、貸すから」

 佐藤さんが目を瞠るまで、五秒ほどかかった。

「え……? でも、あの」

 反応の遅いところも苦手だ。むかつく。

 僕は彼女の言葉が続くのを待たず、自分の机から日本史のノートを取り出す。それを差し出すと、佐藤さんはおずおずと尋ねてきた。

「借りちゃって、いいの?」

「放課後までに返して。宿題も出てるから」

 僕は言うと、あえて彼女には手渡さず、ノートを机の上にぽんと投げた。

 それから黒板を消す為に、騒がしい教室の前方へ急いだ。

「あ、ありがとう、山口くん!」

 佐藤さんが僕の背中に叫んでくれた時は、思わず舌打ちしたくなった。

 おおっぴらにお礼なんて言われたくなかった。皆が聞いたら誤解するじゃないか。

 別に、たかがノートを貸してやったくらいで。


 放課後、佐藤さんは約束通り僕にノートを返してくれた。

「本当にありがとう。迷惑かけちゃったのに、ノートまで貸してくれて」

 相変わらずお礼の声だけは大きい。

「いいよ、別に。早くしてくれた方が助かったってだけ」

「ごめんね。でもすっごくありがたかったの」

 そしてしつこい。別にいいって言ってるんだけど。

 今日はノートを書き写すので疲れただろうに、僕にまで気を遣うことない。


 あの後も横目で見てた。

 佐藤さんがあの後の休み時間も、昼休みも返上してノートを書き写しているのを見てた。

 必死の顔で作業に没頭していたのをちゃんと知ってるから、別にお礼なんていちいち言ってくれなくてもいい。


「それにね」

 佐藤さんは僕にノートを手渡した後、にっこり笑ってこう言った。

「山口くんのノート、とっても見やすかったの。だから余計に助かっちゃった」

「そうかな別に普通だと思うけど」

「山口くんって難しい言葉や漢字には、ちゃんとふりがなつけてるんだね」

 鈍いくせにそういうところは目敏いんだな。

 動揺を悟られないよう、僕は慌てて目を逸らした。

「まあ、ね」

「だから読みやすいノートで偉いなあって思ったの。私も今度からそうしようかな」

 佐藤さんはきっと、今日の授業のページしか見てないんだろう。

 だから他のページにはふりがななんて振ってないことにも気づかない。


 授業中、時間が余ったから。

 佐藤さんがノートを取るのにもたついてたのを知っていたから。

 今日は僕が日直で、黒板を消す当番だったから。

 そんな理由を並べてみても、ノートにふりがなを振っておいたのは不自然だったかもしれない。


 日本史の授業に出てくるような単語なら、僕は苦もなく読める。

 読めないのは時々こんなふうに親切にしたくなる、自分自身の気持ちだった。

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