西暦630年8月某日。難波津の港から、遣唐使船数隻が出発した。船団は、これからいくつかの港を経由して、唐へと向かう。


 そのうちの一隻に、犬上御田鍬は乗っていた。彼は甲板に出て、船の縁に肘をついて海を眺めている。


 そんな彼の肩をたたく者が一人。

「犬上、」

「なんですか」


 振り向いた犬上の目が、驚きで見開かれる。その顔には、なぜお前がここにいるのだという疑問が書かれていた。


「驚いただろ」


 そう言いながら微笑むのは、おなじみの友人、佐伯鳴瀬。


「佐伯、なんで」

「私も留学生るがくしょうとして遣唐使船に乗せてもらえることになってな」

「まじかよ」

「うん。だから私達は運命共同体だ。この船が沈んだら共に黄泉へ参ろうじゃないか」


 面白いとでも言うように、佐伯は肩を震わせる。それに対して犬上は苦い顔をする。


「やめろよ気持ち悪い。それに縁起でもない」




 二人で海を眺める。瀬戸内海の水面が、朝日を反射してきらめいていていた。


 その美しい情景をしばらく見ていた犬上だったが、やがてポツリと呟いた。


「遣唐使の先駆け、か……」


 それに対して佐伯が不思議そうな顔をする。


「ん? 遣唐使の何?」

「いや、俺たちが本当に最初の遣唐使なんだなって」

「なに、感傷に浸ってるわけ?」


 からかう佐伯に、犬上は静かに返す。


「まあ、そういう言い方もできる」

「お、素直に認めた」

「250年、続くんだってよ」

「何が」

「遣唐使が」


 犬上はそこで言葉を切った。佐伯は突然示された長い年月に、目をパチクリさせている。


「それ、ほんとかよ」


 犬上は頷きながらあの日を思い返した。何故か、かけ離れている時代が繋がって、時を超えて出会った少女。彼女が言った未来。未だに起こったことを信じられない自分が居るのも事実だが、それよりも、ユカリが教えてくれた日本の未来を信じてみたいという願望が強かった。


「うん、俺はそう信じてるよ」




 佐伯がしみじみと言う。


「250年か……この間に何代大王が変わって、都がうつって、どれくらい日本は変わるんだろうな」


 それは途方もない時間。夜明けを迎えたばかりの日本にとっては、これからの百年、二百年は激動の時代となっていくのだろう。


「長いんだろうな。私には想像もつかない」

「俺もだよ」


 沈黙が訪れる。船に波が打ち付けられる音が聞こえてきた。朝焼けが船上の二人を照らし出す。


「よし」


 犬上は友人を振り返った。


「佐伯、共に頑張ろうじゃないか。俺は大使、お前は留学生。俺がちゃんと唐の皇帝に謁見して、国交を結んでくる間、お前はちゃんといろんなこと学んでおくんだ」 


「分かってるよ。私だって遊びに行くために留学生になったわけじゃないんだ」


 そういう佐伯に頷き返しながら、犬上は更に続ける。


「唐で見聞きしたこと、全て持ち帰って、日本でも広める。そして、俺たち第一次遣唐使がこれからの日本を作っていくんだ」


「なるほど、いいね。私たちでこれからの日本を作る、か」


 佐伯がいつもの笑みを浮かべる。


「やってやろうじゃないか。大使さま、改めてよろしく」


 二人で拳を突き合わせ、笑い合う。


「ああ、よろしく」





 こうして、日本で最初の遣唐使が旅立っていった。今後250年間で、遣唐使は19回任命され、そのうち15回が実際に派遣されることになる。


 その中には、唐の玄宗皇帝に気に入られ向こうの役人となった阿倍仲麻呂あべのなかまろや、二回も唐に渡った優秀な政治家・吉備真備きびのまきび。さらには留学僧るがくそうとして唐で学び、帰国後、かの有名な二つの平安仏教を開いた最澄と空海など、日本史に名を残している人物たちがたくさんいる。


 その偉業も歴史も、すべてこの犬上たち630年の第一次遣唐使から始まっているのだ。


 しかし彼らはその未来を知らない。




 


 これは、日本がまだ「日本やまと」と呼ばれていた時代の、少し不思議な異聞録である。


 さて――今宵は、連綿と令和の世まで続いてきた日本の歴史に、少し思いを馳せてみようか。




【了】

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イヌカミさまは遣唐使! 咲翔 @sakigake-m

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