由香里の問いに犬上は驚いた。


「……まだ出立してないがな」


 その魔法の板を触ると、何でもわかってしまうのだろうか。疑問に思いつつ首肯すると、由香里は更に目を輝かせた。


「へー! すごいじゃん」

「すごいのかな」

「うん、すごいよ。最初の遣唐使!」


 由香里はスマートフォンを弄びながら、頭の中で計算する。


「だって、ハクシに戻そう遣唐使、でしょ? だから894年に遣唐使が終わる」

「白紙に戻されたら困るのだが」

「いや、こっちの話よ。それで、第一回遣唐使が、えーっと? ウィキペディアによると630年」

「うぃきぺでぃあ」

「それもこっちの話よ」


 由香里は適当に流しながら、犬上の方を見た。そして、言う。


「250年も続くのよ!」

「何がだよ」

「遣唐使の派遣が」

「えっ」


 犬上は思わず目を丸くした。その反応を楽しむように、由香里が続ける。


「私は未来の人間だからわかるの。これから先、遣唐使はずっと続いていく。今の大王じゃなくなったあとも、あなたの子孫たちの時代も、日本は唐に人を派遣するのよ」


 そして持ち帰られた先進的な文化、日本の風土に合わせて古代の人々はそれを受け入れ、より日ノ本やまとという国は発展していく。


「あなたはその先駆け。遣唐使という長い歴史を持つことになる使節の、最初の一人になる。誇りに思ったほうがいいわ」


 由香里の励ましに、犬上は「でも」と口を挟む。


「航海は危険を伴う。確かに大臣殿たちが俺を指名してくれたのは嬉しい。でも成功するかどうか……」


「大丈夫よ」


 由香里は頷いた。


「だって、ちゃんと書いてあるもんの。イヌは日本に帰ってくる。もちろん仕事を全うして」


 だから――自信を持ってね。


 由香里はニッコリと笑う。


「大丈夫よ、イヌなら大丈夫」

「ユカリ……ありがとう。元気出てきたかも」

「それはよかったわ」

「でもやっぱりあだ名がイヌなのは、やめてくれないかな」

「いいえ、あなたはイヌよ」


 その主張は曲げない由香里に、ある種の尊敬を抱きながら、犬上は立ち上がった。


「俺、帰るよ」

「あら急ね。どうしたの」

「なんかそろそろ、周りの空気が帰れって言ってるみたい」

「元の時代がイヌを呼んでるのかもね。でも結局、あなたが未来に来た理由は分からずじまいだったわ」


 由香里がそう言うと、犬上は首を横に振った。

「いや、わかった気がするよ」

「なんだったの?」

「ユカリに会うためだ」


 由香里はキョトンという顔をした。犬上は冠の位置を直しながら、続けて口を開く。


「俺、遣唐使に任ぜられて不安だったんだ。でも……なんか、ユカリに会って話したら、元気が出た気がするから。きっと今こうやって話しているのが、時を超えた意味なんだと思う」

「なるほどね、じゃあ私は良いことをしたっていう解釈であってる?」

「うん」


 犬上は由香里の目を見て頷いた。


「ありがとう、ユカリ。1000年以上経った未来も、ちゃんと日本が日本でよかった。今俺たちが必死になって政治の基盤を作ったり、唐に行って色々学んできたりしようとしているのも、無駄じゃないってことが分かったから」


 だから――。


「未来の日本を、よろしく。俺も頑張ってくるから」


 その言葉を最後に、犬上の体がみるみる消え始めた。だんだんとその冠や衣の色合いが薄くなっていき、ふっと男の姿は見えなくなる。







「そんな」


 由香里はひとりきりになった部屋で、小さく笑う。


「未来をよろしくって言われてもね」


 スマートフォンの画面に表示された、犬上御田鍬に関するウィキペディアのページを見やる。そこには、彼が最後の遣隋使と最初の遣唐使であったという情報以外、ほぼ書いていない。


 しかし日本が辿ってきた長い長い歴史の中で、数多の人々が生きていて。その中で名を残すということは、並大抵のことではないのだと分かる。


「つまりイヌは凄い人ってこと」


 由香里は、犬上が来るまで向かっていた勉強机を振り返った。分厚い、赤い表紙の問題集。


「まあ、昔のイヌカミさまも頑張っていることだし」


 受験生はシャーペンを握りしめる。


「未来のイヌカミも、頑張っちゃおうかな」


 そう呟いて――犬上由香里は過去問に取り掛かる。

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