三
遣唐使船の出立は来年の八月、準備しておくように。蝦夷はそう言って、犬上を下がらせた。
(遣唐使の大使――)
大使とは一行を取りまとめるリーダーであり、中国の皇帝に謁見し、日本からの挨拶を述べるという重要な役目である。
(最初の遣唐大使が俺か)
犬上は板張りの廊下を歩きながら考えていた。思わず自分への疑いを口に出してしまう。
「務まるのか? 俺に」
すると、背後から今日聞いたばかりで、聞き慣れすぎた声が聞こえてきた。
「いや、務まらんね」
振り返るとそこに居たのは、やれやれと言った顔で首を横に振る友人――佐伯鳴瀬。
「三歩歩いただけで物忘れをするお前には務まらん。前回の遣隋使でのお前のやらかしは、私の耳にも入ってきてるぞ?」
「は!? 俺なんもやらかしてねーし!」
「やらかしてない? どこの誰がそんな嘘を。矢田部殿から聞いたのによるとお前」
「うるっさい! 黙れ佐伯!」
宮殿の廊下でジタバタと暴れる犬上を、佐伯は呆れた顔で諫める。
「お前何歳だよ。子供のようだぞ」
「なんとでも言ってろ」
「拗ねたのか」
「拗ねてない」
ぷい、と顔を背ける犬上。佐伯はそっぽを向いてしまった友人を、優しく見つめた。
「ま、頑張れよ。大使さん」
「……うん、まあ」
犬上は柄にもなく小さな声で答える。そして、これから文書を管理している役所に行くのだという佐伯と別れ、一度家に帰ることにした。大使に任ぜられた旨を家の者に伝えるためだ。
(唐に渡ったら、最低でも一年は帰ってこられないな。色々と頼んでおかねば……)
期待されているというプレッシャーと、もしかすると命を失うかもしれない航海への恐怖と、自分でいいのかという漠然とした不安。犬上の心の内は、それらでいっぱいだった。
家の屋根が見えてきた。質素な木戸の前に立ち、ガタガタと戸を引く。
「ただ今帰った」
戸の向こうには、土間と少し高くなっているスペースがある――はずだった。
犬上が戸を開けた音に気づいて、駆け寄ってきて「お帰りなさい」と言ってくれる妻が居るはずだったのだ。
いつもと変わらぬ家のどこか懐かしい匂いがするはずだったのに……。
「……え?」
戸を開けた向こうに居たのは、妻でも子でもなく、こちらに背を向けて椅子に座っている見知らぬ
「……ちょ、お母さん勝手に部屋のドア開けないでよ。今勉強ちゃんと、やってたんだから……って、え?」
こちらを振り向いた少女が目を見開く。同じように犬上も目を見開いて固まっていた。
――この女は、誰だ?
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