遣唐使船の出立は来年の八月、準備しておくように。蝦夷はそう言って、犬上を下がらせた。


(遣唐使の大使――)


 大使とは一行を取りまとめるリーダーであり、中国の皇帝に謁見し、日本からの挨拶を述べるという重要な役目である。


(最初の遣唐大使が俺か)


 犬上は板張りの廊下を歩きながら考えていた。思わず自分への疑いを口に出してしまう。


「務まるのか? 俺に」


 すると、背後から今日聞いたばかりで、聞き慣れすぎた声が聞こえてきた。


「いや、務まらんね」


 振り返るとそこに居たのは、やれやれと言った顔で首を横に振る友人――佐伯鳴瀬。


「三歩歩いただけで物忘れをするお前には務まらん。前回の遣隋使でのお前のやらかしは、私の耳にも入ってきてるぞ?」

「は!? 俺なんもやらかしてねーし!」

「やらかしてない? どこの誰がそんな嘘を。矢田部殿から聞いたのによるとお前」

「うるっさい! 黙れ佐伯!」


 宮殿の廊下でジタバタと暴れる犬上を、佐伯は呆れた顔で諫める。


「お前何歳だよ。子供のようだぞ」

「なんとでも言ってろ」

「拗ねたのか」

「拗ねてない」


 ぷい、と顔を背ける犬上。佐伯はそっぽを向いてしまった友人を、優しく見つめた。


「ま、頑張れよ。大使さん」

「……うん、まあ」


 犬上は柄にもなく小さな声で答える。そして、これから文書を管理している役所に行くのだという佐伯と別れ、一度家に帰ることにした。大使に任ぜられた旨を家の者に伝えるためだ。


(唐に渡ったら、最低でも一年は帰ってこられないな。色々と頼んでおかねば……)


 期待されているというプレッシャーと、もしかすると命を失うかもしれない航海への恐怖と、自分でいいのかという漠然とした不安。犬上の心の内は、それらでいっぱいだった。

 

 家の屋根が見えてきた。質素な木戸の前に立ち、ガタガタと戸を引く。


「ただ今帰った」


 戸の向こうには、土間と少し高くなっているスペースがある――

 犬上が戸を開けた音に気づいて、駆け寄ってきて「お帰りなさい」と言ってくれる妻が居るのだ。


 いつもと変わらぬ家のどこか懐かしい匂いがする……。



「……え?」



 戸を開けた向こうに居たのは、妻でも子でもなく、こちらに背を向けて椅子に座っている見知らぬ女子おなごだった。



「……ちょ、お母さん勝手に部屋のドア開けないでよ。今勉強ちゃんと、やってたんだから……って、え?」


 こちらを振り向いた少女が目を見開く。同じように犬上も目を見開いて固まっていた。


 ――この女は、誰だ?

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