大王の居る部屋へと入る。

犬上君御田鍬いぬかみのきみみたすき、ただいま参りました」


 両手を合わせ、頭を袖の下へ下げるように礼をする。すると聞き覚えのある男の声がした。


「おお、来てくれたか」


 顔を上げ、前を見る。犬上の視界に入ったきたのは、紫色の高貴な衣を身にまとった笑顔の男だった。彼の名は蘇我蝦夷――天皇を補佐しながら政治を行っている大臣である。


「大臣と大王がお呼びと聞き、参上いたしました。何用でございましょうか」

「そうであったな」

 蝦夷が後方を振り返った。

「大王。犬上御田鍬が参りました」


 蝦夷につられて部屋の奥に目をやると、そこには薄い御簾みすがかかった空間があり、その奥に微かに人影が見えた。舒明天皇だろう。


「犬上御田鍬、ここに参上しました」

 もう一度名乗って、返事をうかがう。すると御簾の奥から、ゆっくりとした声が聞こえた。

「来てくれて、ありがとう。お前には頼みたいことがあって、蝦夷を通じてここに来てもらった」

 犬上はびっくりして思わず声を上げた。

「えっ……! お、大王自らとは、なにようでございましょうか」

「そなたには、遣唐使になってもらいたい」


 一瞬、大王の言葉が聞き取れなかった。


「お、大王。すみません、なにになってもらいたいと?」


「遣唐使、だ」


 聞き返した犬上に答えたのは、蘇我蝦夷だった。犬上は顔を上げて、蝦夷と目を合わせる。


「ケントウシ」

「ああ、そうだ。お前は、遣隋使として隋に渡ったことがあるだろう。しかしその隋は、もう滅んでしまった。これは周知の事実であろう」


 蝦夷がなんともなさそうに言ってのけるのを見て、犬上は心のなかで焦る。

(言えない……ほんのさっき、佐伯から聞いてようやく思い出したとか言えねーぜ……)

 そんなことを思っているとはおくびにも出さず、犬上は頷いた。

「そうでございました。あれが最後の遣隋使であったと後に知りました」

「そのとおりだ。そして、これも知っていると思うが、隋の次に興った国が、『唐』だ。聞けば長安という場所を王都として、隋よりも栄えているらしいとのこと」


 蝦夷がふっと笑った。

「犬上、そなたにはこの唐へ渡ってもらい、隋のときと同じように、この日ノ本の為に色々と学んできてほしいのだ。頼まれてくれるか?」


 遣隋使、ではなく遣唐使。それは戦乱の時を終え、更に発展を続ける中国という国へ崇敬を示し、同時に進んだ文化を日本に持ち帰り、学んでくるという国家の発展のための大事な遣い。


 それを、大王と蝦夷このお方たちは犬上御田鍬に任せようと言っている。最後の隋を知る者に、新たな唐という国を見てこいと――。


「そのお話、お受けいたします」


 犬上はその目に真っ直ぐな光を宿らせ、蝦夷、そして大王の居る方へと顔を向けた。


「この犬上御田鍬、唐に渡り国交を結び、見聞を広めて参りまする。命をかけて、このご命令を遂行いたします」


 当時の航海技術では、日本と中国という近い距離でも、海を渡る命がけの所業だった。遣隋使、遣唐使になるというのは名誉な事であると同時に、命の保証の無い旅路へのスタートラインでもあったのだ。


 しかし犬上御田鍬は、この話を受けた。


「では、犬上御田鍬――そなたを、第一次遣唐使、大使に任命する!」

「はい!」


 こうして、最後の遣隋使は最初の遣唐使となったのであった。

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