時は西暦629年。大王おおきみの住まう都、小墾田宮おはりだのみやに一人の男の叫び声が響き渡った。


「ず、ずいが滅んでいた!?」


 声の主は、濃い青色の冠を被った役人。するとその男にツッコむように、また別の声がした。


「お前知らなかったのか? 隋は……確か十一年前に消えたぞ。今は王朝が変わって、『とう』と言うそうだ」

「は? なんだよそれ、俺聞いてねーぜ」


 宮殿の廊下の柱に背中を預けながら、顔をしかめる青冠の男――彼こそが、犬上御田鍬いぬかみのみたすき。時の大王・舒明じょめい天皇に仕える官吏である。


「聞いてない?」

 驚いた顔の犬上に呆れたようにツッコむのは、彼の同僚の佐伯鳴瀬さえき なるせ。同じ色の冠を被り、萌黄色の衣服を身にまとっている。

「お前な、遣隋使になったこともあるんだろう? 世界情勢くらい把握しておけよ」


「それがそうも行かないんですわ、サエキさんよ」

 右袖で口元を隠し、もう一方の手をヒラヒラと振る犬上。

「なんせ俺は、聞いたことを直ぐに忘れちゃうもんで。言われてみれば、確か隋滅亡の話は聞いたことがあったかもしれないな」

「ちゃんと覚えてろよ」

「三歩歩いたら忘れちゃうんだ」

「鳥頭か、全く」


 佐伯は大きくため息をついた。しかし直ぐにパッと顔をあげ、犬上の肩をポンと叩く。


「ま、そういうわけで隋は滅んでいたと。だから……もう十五年も前になるのか。犬上たちが隋に渡ったのが、最後の遣隋使だったんだよ」

「俺が、最後の遣隋使?」

「そう」


 佐伯は同僚の目を見て頷いた。


「時の流れは繰り返さない。隋という国は、もう興らない。だから犬上は、隋という国を知る貴重な存在なんだよ。誇りを持つといい」


 犬上が目を見開いた。少し口元をほころばせ、目の前に立つ友に礼を述べる。


「……そうだな、ありがとう」

「うん」

「だが佐伯、急にどうしたんだ。今廊下でばったり会っただけなのに、隋の話をして、唐の話をして、変に俺を励まして」

 

 犬上が不思議そうに聞くと、佐伯はふっと笑みをこぼした。

「廊下で? 違うね。私がお前を探していた」

「探してた? なぜ」

「伝言をするためさ。さっき、そこで大臣殿の使いに出くわしてな」


 大臣殿とは、蘇我蝦夷そがの えみしのことだ。推古すいこ天皇亡き後、舒明天皇を立てて権力を握っている。


「蘇我殿?」

「お前に用があるんだと」

「そりゃまたなんで」


 犬上は最近の自分の宮中での振る舞いを思い返し、なにか叱られるようなことでもしたかなと首を傾げる。しかし、佐伯は教えてくれそうにもない。


大仁だいにん、犬上御田鍬」


 佐伯が急に畏まって言った。その顔には微笑が浮かんでいるが、発せられる低い声には厳かな雰囲気が感じられる。


「蘇我蝦夷様、そして大王がお呼びだ。急ぎ大王の処へ参られよ」


 大王からの、お呼び出し――。


「わかった」

 犬上は頷いた。

「伝言ありがとう。行ってくるよ」


 彼の纏う、水色の衣の裾が翻る。佐伯鳴瀬は、廊下の奥へと遠ざかっていく友人の背中をいつまでも見送っていた。

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