簪の美鈴(09)
「本当に優しくて真面目で……。今まで、こんなにも誰かを好きになったことはないんです」
この一週間ドロドロの展開ばかり聞いてきたせいで、私は思わず泣き出しそうになった。なんて純愛。素晴らしいカップルだ。
「ごめんなさい、こんなのろけ話、聞きたくないですよね」
「いやいや、いいんですよ。私、そっちの方が好きです」
ドロドロした恋愛のいざこざは、できればもう当分聞きたくはない。自分の時もずいぶんややこしい展開になってしまった。もう懲り懲りだ。
「ただ、最近仕事の日だと思っていたら介護の日だったり、訊いていた話と違ったりして、辻褄が合わない気がしてきたんです」
話に訊く限り、彼氏は相当忙しそうだ。もしかしたら、ついうっかり間違えていたのかもしれない。
「忙しくて、間違えていることもあるかもしれませんよ」
「もちろん、それは私も思いました。でも、一度や二度の話ではなくて……」
「じゃあ、直接本人に訊いてみたらどうですか?」
玄関の戸が開く音がした。足音がこちらへ近づいて来る。
「おや、お客さんだね」
美鈴さんは両手に大きな袋を抱えてやって来た。
「モモちゃんは、僕の席で何をしているのかな?」
怒られる、そう思い条件反射ですぐに立ち上がった。笑っているが、いつもながら隠しきれていない。目が笑っていない。
「これ、片付けておいてね」
私は紙袋を受け取り、中を覗いた。全部着物だ。クリーニングから持って帰って来た着物から、新しい着物もある。
「さあさあ、彼女のことは気にしないで。僕に聞かせてよ」
――リン
美鈴さんは我がもの顔で椅子にどっしり腰かけて、足を組んだ。
仕方なく私は着物を抱えてひとまずハルさんの部屋へ行く。中で源次郎さんとハルさんが静かに座ったままこちらを見た。
「客人はまだいるんだろう?」
「はい」
よいしょ、と紙袋を置き中から着物を丁寧に取り出す。
「美鈴さんは着物がお好きなんですね」
「生まれた時代が時代だからな。落ち着くのかもしれん」
着物の取り扱い方など、私にはさっぱりわからない。ただ着物が皺にならないよう、そっと取り出して畳に並べておいた。
「今回の依頼者は、どんな感じだい?」
「今回は恨みを晴らすというより、ただの相談って感じですね」
「そうかい。それならいいんだけどねぇ……」
ハルさんの表情からは、よくない展開を想像しているように見えた。美鈴さんを心配しているのだろう。
「とにかく、美鈴をしっかり見ていてくれ。何かあればすぐ私たちに教えてほしい」
わかりました、と私は頷いた。
「そういえば、ハルさんは今までどこへ行っていたんですか?」
私はほぼ毎日ここへ通っているのに、一度もふたりと出会わなかった。
「あたしや源次郎は美鈴のようにずっと動き回れないんだよ。そこまで力は強くないからね」
ハルさんの言葉から、美鈴さんの力は他の付喪神より強いと理解できた。
「ハルはいつもはこの掛け軸の中にいる。私もいつもは木箱の中で眠っている」
きょうはたまたま少し外に出て散歩をしていただけ、とハルさんは言った。
付喪神というものは、どうやら一日中ずっと動き回るものではないらしい。私がこれまで出会わなかったのは、そういう理由か。美鈴さんだけが例外で、普通の人のように生活を送っているのだろう。
「美鈴を救えるのは、おそらく百花だけだよ。できるだけ美鈴のそばにいてやって。支えてやってね」
ハルさんはそう言って立ち上がると、掛け軸の前に立った。椿が生けられた花瓶の横にそっと源次郎さんを置き、掛け軸に手を触れる。すっと染み込むように、ハルさんは掛け軸の中へと消えて行った。
ハルさんの姿はすべて線と色になり、こちらを見て微笑むただの絵になった。
「この絵は、源次郎さんが描いたんですよね」
「そうだ、源次郎が描いた」
上手いだろう、と湯呑の源次郎さんはまるで自分が描いたかのように得意げに言った。
「とても上手です。綺麗な絵ですね」
なんと言ったらいいのか、この美しさを言葉にするほどの語彙力が私にはない。ハルさんへの深い愛情と、作者源次郎さんの優しい心が表れている。ここに描かれたハルさんは、さぞかし幸せだろう。
「源次郎は、ハルをとても愛していた。ふたりは毎日幸せそうだった」
ふたりはもうとっくの昔にこの世を去っているのだろう。ふたりがどんな結末を迎えたのか、私は訊けなかった。死だけは生き物すべてに平等だ。でも、死がいつどこで訪れるかは誰にもわからない。それが平等ではないところ。
「私も昔、絵を描いていました」
「昔? 今はもう描いていないのか?」
私は無言で頷く。
「なぜ辞めたんだ?」
源次郎さんの質問になぜかすぐに答えられなかった。どうしてだろう、と私自身首を傾げる。
「なんだ、そんなに複雑な話なのか?」
「いや、そんなことはないですけど……。まぁ、私には向いてなかったってことですかね」
源次郎さんは「そうか」とだけ答えると、それから静かになった。掛け軸のハルさんから目線を源次郎さんへ移すと、源次郎さんの手足は消えていた。眠ってしまったのだろうか。
私は源次郎さんを手に取って、キッチンへ向かった。あの木箱へ返しておかなければ。
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