簪の美鈴(10)
キッチンの戸棚に源次郎さんを戻し、お湯を沸かした。このまま何も持たずに戻れば「コーヒーはないの?」と美鈴さんに訊ねられそうだ。
コーヒーを持って居間へ戻ると、近藤さんは美鈴さんの前で小さく身を縮めていた。居心地が悪いのだろう。美鈴さんの威圧感は半端じゃない。
「それで、近藤さんはどうしたいのかな?」
美鈴さんは笑顔で訊ねた。
「彼の言葉が本当かどうか、知りたいんです」
「それなら、自分で質問すればいいと思うよ」
きっぱりそう言う美鈴さんに、近藤さんは下唇を軽く噛んで表情を曇らせた。
それを見て、美鈴さんは小さく笑う。
「何か感じているんじゃない、近藤さんは」
「……感じてる?」
「女の勘、ってやつじゃないかな?」
私は話し込むふたりの前にコーヒーを差し出した。近藤さんは軽く頭を下げる。
「女の勘なんて大それたものではないんですが、多少違和感があります」
「それが女の勘だよ」
――リン
美鈴さんの鈴が鳴る。
この音は、私だけにしか聞こえないのだろうか。相談者たちにはいつも、鈴の音なんて聞こえていないみたいだ。
「親の介護や仕事が忙しいだろうから、せめて私と一緒にいるときくらい楽しんでもらいたいんです。だから、彼には訊きづらくて」
「それじゃあ、彼の行動を一度監視した方がよさそうだね」
監視? そんな探偵みたいな仕事、一体誰がするというのだろう。
美鈴さんと目が合う。
まさか……私?
「ちょ、ちょっと待ってください。行動を探るのなら探偵事務所とかに相談した方がいいんじゃないですか?」
私が慌てて口を挟むと、美鈴さんはコーヒーを一口飲んで妖しく笑う。
「探偵事務所は高額だと聞きますし、お金はないので……」
「だからやっぱり、モモちゃんの仕事だね」
美鈴さんはなんだか嬉しそうだ。
しかし、私にはわからない。近藤さんは疑心暗鬼になっているように見えた。話を訊いた限りでは、そこまで悩むほどではない気がする。まあ、当事者ではない私だからこそ、そう思えるのかもしれない。悩んでいなければ、こんな古びた怪しげな場所へは来ないだろう。
「近藤さんがそう願うのなら、恋人を調べてみよう」
ただし、と美鈴さんは言う。私はドキリとした。さきほどの源次郎さんとハルさんの言葉を思い出す。
「ただってわけにはいかないんだよね」
「……あの、あんまりお金はないんですが……どのくらいでしょうか」
「お金はいらないよ」
やっぱり。思い出の一日を奪うつもりだ。
「それじゃあ、一体……」
お金でない請求ほど、怖いものはない。近藤さんの顔から徐々に色がなくなっていく。
「近藤さんの髪の毛一本、もらっちゃってもいい?」
「……髪の毛、一本?」
一本だけでいいんですか? と近藤さんは訊き返す。
「うん、一本でいいよ。そんなにたくさん抜いたら痛いし、切るとせっかくの髪型が台無しだもんね」
私の方が拍子抜けした。
髪の毛一本? それこそ、一体どうするつもりなんだろう。
近藤さんは一本髪を引っ張って、ぷつりと抜き取り美鈴さんに差し出した。
「彼氏、名前はなんて言ったっけ?」
美鈴さんは近藤さんから彼氏の名前や働き先、住所を聞いた。小さなメモ用紙に書き留めると「それじゃあ、また一週間後に来てよ」と言う。
「わかりました。お願いします」
「近藤さんはいつも通りにしていて。何かあれば、いつでも来ていいから」
夜遅くでもね、と美鈴さんは怪しげに笑みを浮かべる。
近藤さんは小さく「はい」と返事をして、「そろそろ仕事があるので」と腕時計を見て言った。
コーヒーを慌てて飲み干し「ご馳走様でした」と立ち上がる。
「ありがとうございました、よろしくお願いします」
帰り際、美鈴さんはお礼を言う近藤さんに「彼氏は幸せ者だね。近藤さんみたいに可愛らしい子が彼女で」と言った。
「そんなことないですよ」
近藤さんは素早く首を振る。
「私、顔がコンプレックスなんです。この鼻とか輪郭とか、歯並びも悪くて」
「そう? とっても美人さんなのに」
近藤さんは恥ずかしさからか美鈴さんと私の目を見ないようにして、そっと「お邪魔しました」と戸を閉めて帰って行った。
私は呆然と美鈴さんを見る。言いたいことがありすぎて、どれにどう突っ込んでいいのかわからない。
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