簪の美鈴(07)

 あのとき、私は確かにいろいろと困っていた。辛い仕事に、ホストクラブで散財する日々。好きだったエイジくんが他の人とデートしている現場に遭遇。そして、目の前で会社の社長が逮捕された。


「確かに私も困っていた中で美鈴さんと出会いましたが、金欠なのは相変わらずでも、ほとんど悩みは解決したと思うんです」

「百花、あんたの悩みは解決していないんだよ」


 ハルさんは言った。


「だからここへ毎日来られるのだろう」


 続いて源次郎さんも言う。


「現に、ここへ来てずっと引き続きやって来る人は百花以外にいたか?」


 ……いない。

 確かに、言われてみれば私以外に誰も通い続けている人はいない。でも、だとしたら私は何を悩んでいるというのだろう。仕事か。恋か。人並みの悩みはあるけれど、美鈴さんの世話になるような悩みというのがどれかわからない。自分の胸に手を当ててみるが、これといって心当たりもなかった。


「付喪神というのは人によって生み出され、人に恩を返すもの。今の姿は仮の姿だよ。あたしはただの絵で、源次郎はただの湯呑みで、美鈴はただの簪なのさ。美鈴が付喪神であるなら、百花の手助けをするだろう。見返りを求めない、報酬をもらわずとも美鈴が人と向き合えれば、きっと本来の姿に戻れるはずだ」


 本来の姿に戻る。簪の姿に、という意味だろうか。


「でも、私には本当に思い当たる悩みがないんですが。それに、悩みがない人なんていないと思います」

「だから不思議なんだ。美鈴が百花を雇うと決めたのも、いい兆しなのかもしれん」

「そうだね。あいつに美鈴と名付けたくらいだ。何か不思議な縁があるのかもしれないね」


 ゆっくりと様子を伺うしかないな、と源次郎さんは言った。


「おふたりは、美鈴さんと長い付き合いなんですか?」

「まあ、それなりにな。もともと美鈴は住処を持たず放浪していたのだが、たまたまここの庭を気に入って、住まわせてほしいと言ってきたんだ」

「庭?」

「椿があるだろう。好きなんだと言っていた」


 掛け軸の前の椿の花を見る。美鈴さんと知り合うきっかけとも言える椿。何か意味があるのだろうか。


「美鈴も本来なら簪の姿をしているはずだよ、湯呑みの源次郎のように。それに、なぜ清葉に簪を贈った男――甚之助の姿をしているのか気になるね」

「え、そうなんですか?」

「そうさ。美鈴は清葉が死んだ日、甚之助の姿でこの世に生まれたんだ。清葉の亡骸を見下ろしていたんだよ。姿は甚之助でも、甚之助とは名乗りたくなかったんだろうね」


 見たはずのない光景が頭の中に浮かび上がる。横たわる遊女清葉さんの傍らに、呆然と立ち尽くす美鈴さんの姿。悲壮に満ちた美鈴さんの表情――。

 私は勢いよく頭を振った。


「あたしたちは、自分の意思で源次郎とハルと名乗っている。お互い、持ち主のふたりが好きだったからね」


 ハルさんの言葉に源次郎さんが「ああ、大好きだった」と答えた。


「持ち主だった清葉さんはその……どうして亡くなったんでしょうか」

「それはな、」


 源次郎さんはそう言って腕を組んだ。


「あの、すみません」


 玄関から声がする。美鈴さんではない。ということは、お客か。


「は、はい……!」


 私は慌ててハルさんの部屋から頭だけ出して、玄関を覗く。胸のあたりまで伸ばした茶髪に、黒いコートを羽織った女の人が立っていた。黒いタイツに黒いブーツ。髪の毛以外真っ黒だ。バッチリメイクで、睫毛はくるんと上を向いている。見た感じ、私より年下に思えた

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