簪の美鈴(05)

「あたしはハル」


 はい、と私は頷く。


「単刀直入に言う。ここから早く立ち去りな」

「え?」


 よそ者は出ていけ、という意味か。


「いやあの……実は私、旦那様の大切なモノを……」

「あたしの旦那がどうしたって⁈」


 ハルさんは急にまた顔色を変える。勢いよく伸びた腕に服を掴まれた。


「旦那に何をしたんだい!」


 美鈴さん、奥さんにめちゃくちゃ溺愛されている。一体どうなってるんだ。

 口から魂が飛んでいきそうになっていると、キッチンの方から「ハル」と声がする。


「あたしのダーリン!」

「だ、ダーリン……?」


 掴んでいた手をパッと離し、ものすごい勢いでキッチンへ走っていった。私は訳が分からず、へなへなとそのまま床に座り込む。


「何を馬鹿な勘違いをしているんだ。百花は何もしていない」


 ハルさんの手のひらにすっぽりと収まった源次郎さんは、私を見て笑い声をあげていた。


「笑い事じゃないですよ、一体どういうことですか」


 私は伸びた服を手で伸ばしながら訊ねる。今は新しい服を買うお金もない。これはまだ昨年買ったばかりのパーカーだ。まだあと数年は着倒す予定なのに。


「すまないことをしたね。旦那というので、少し動揺してしまったよ」


 少し、どころではない。

 ハルさんがいう旦那とは、源次郎さんなのか。


「百花は、彼の壺の中身を出してしまったらしい」

「壺の中身を?」


 ハルさんは眉間に皺をよせ、うーんと唸っている。


「百花と言ったね。あんた、よく無事だったね」


 またか。美鈴さんは、このふたりにとってどんな存在なのだろう。そんなに恐ろしい存在なのだろうか。


「あの、詳しい事情はわかりませんが、私はどうやら相当大切なモノを失くしてしまったみたいなので、ここで罪を償うために働いているんです」


 美鈴さんからはもう来なくていいと言われたが、私は私の意思でここへ毎日通っている。償いたいという気持ちと……ほんのちょっぴりの下心。


「……あんた、彼と縁を結べるのかい?」

「縁を結ぶだなんて、そんな大そうな話ではないですが」

「いや、これは一大事だよ。もしかしたら、彼を救えるかもしれない」

「……救う?」


 美鈴さん、どこか悪いんですか? と私が訊ねると「あたしたちに病など存在しないよ」と言い返されてしまった。それならば、一体なんだろう。

 ハルさんは夫で湯呑の源次郎さんをそっと肩に乗せる。源次郎さんはまるで飼いならされた文鳥のように肩に留まっている。


「どのくらい彼について知っているんだい?」

「えっと……江戸時代の遊女の簪だったってくらいですかね」

「百花はな、彼に美鈴って名前まで付けたんだ」


 耳元で囁く源次郎さんに、ハルさんは「まさか」と大きく目を見張る。


「彼がこうなってから、三百年以上になるんだよ」

「三百年?!」


 数字を言われてびっくりしたが、よくよく考えてみればそうだ。今から三百年ほど前となると、江戸時代の中期頃だろうか。歴史はあまり得意ではなかったからよくわからない。


「美鈴、良い名だね」

「ありがとうございます」


 私はもう、我が子に名付けたような気持ちになっていた。


「あたしも美鈴と呼ばせてもらうよ。美鈴は、清葉という遊女が大切にしていた簪だったんだ。鈴が付いた簪で、相当大切にされていたんだろうね」


 長い間大切にされたモノには魂が宿る。美鈴さんの持ち主だった清葉さんという人は、それほどまでに簪を大切にしたのだろう。

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