簪の美鈴(03)

 私は震える身体であたりをきょろきょろ探す。さっき落としてしまった木箱の中に、赤い布があった。腰布って、これか。


「は、はい。どうぞ」


 私は湯呑さんを見ないよう手で自分の目を覆い、赤い布を差し出した。


「そうだ、これだこれ」


 布を渡してからすぐに「もう大丈夫だ」と声をかけられた。ゆっくり振り返ると、湯呑さんは赤い布を湯呑の半分くらいのところで結び、身体を隠しているようだった。このとき、私の頭の中では男の人がお風呂上りにバスタオル一枚腰に巻いている姿に変換されていた。でもつまり、湯呑さんが言っているのはそういうことだろう。ただの変態みたいな恰好だ。


「名前は?」

「佐々木百花です」

「百花か。私は源次郎だ」


 湯呑の源次郎さんはすっと右手を差し出してきた。どうも、と私はその逞しい手を取り握手す。


「いやあの……私、ちょっと理解できてないんですけど」

「何をだ?」


 源次郎さんの顔の表情はわからないけれど、声の感じからして、きっと目を丸くして私を見ているのだろう。手足は生えているが、顔はない。のっぺらぼうだ。


「百花が見ている通り、私は湯呑だ。人からしたら、まぁありえないかもしれないがな」


 ははは、と笑い声を漏らす源次郎さん。

 はは……と私は苦笑した。笑うべきところなのか?


「こんなことをお聞きするのは失礼かもしれませんが……その……」

「なんでも聞いてくれたらいい」


 源次郎さんはそう言ってなおも笑っている様子だった。


「源次郎さんは、その……妖怪ですか?」

「妖怪か」


 難しい質問だ、と源次郎さんは言った。

 流しからよいしょと立ち上がり、私に手招きする。

 なんですか、と顔を近づけると私の肩にひょいと飛び乗った。


「私はこの湯呑を作った人から命をもらっている。もうこの世にはいない」

「……それってつまり、魂が宿ったってことですか?」

「まあ、そんな感じだな」


 美鈴さんもそうだけれど、人ではないという以外全部曖昧だ。


「大切にされたモノには魂が宿る。よく聞く話だろう?」


 美鈴さんもそうであるからして、確かに珍しい話ではない。でも、どう考えたっていろいろおかしい。


「源次郎さんを作った方って、どんな人なんですか?」

「素敵な人だ。私の妻だった」

「妻?」


 どういうことだ。湯呑さんの奥さんは人なのか?


「掃除なんて久々だな。隅々まで頼む。埃が溜まってひどい状態だからな」


 ああ、はいはい。と私は軽く返事をして、肩から丁寧に源次郎さんを持ち上げ、キッチン横にある小さなテーブルの上に置いた。割れたりしたら大変だ。


 とりあえず流しにあるタワシを使って、タイルや流し、コンロの周りの汚れをそぎ落とす。それから布巾で拭く。いろいろと掃除用の道具を買いそろえておいた方がよさそうだ。

 流しをこすりながら、脇にいる源次郎さんの視線を感じていた。


「そういえば、なぜ百花はここにいるんだ?」


 源次郎さんが訊ねる。


「実は、庭の椿の木の根元にあった壺を掘り起こしたんです。蓋を開けてしまって……」

「何?」


 短く驚いたような声を漏らし、源次郎さんはそのまま固まってしまった。

 あの壺の中には、それほどまでに大切なモノが入っていたのか。あの光はなんだったのだろう。


「やってしまったな。彼は怒ってただろ?」

「はい、めちゃくちゃに。目が笑ってませんでしたから」

「命があっただけ、よかったな」


 え、と今度は私が手を止めて固まる。

 美鈴さんは私を殺すほどまでに怒っていたのか。だからこそ、いろいろとこき使われるはずだ。


「あの中には、何が入っていたんでしょうか」

「何も知らないで開けたのか?」


 はい、と答えると源次郎さんは「そうだな」と腕を組む。


「私でなく、彼から訊くべきだな。それに三月になればわかるだろう」

「三月?」


 今は一月の頭だ。あと二か月後に、何があるのだろう。


「源次郎さんはその、美鈴さんとは長い付き合いなんですか?」

「美鈴さん?」


 ああ、そうか。美鈴さんという名は私が付けたから、銀次郎さんが知るはずもない。


「美鈴さん。そうか、百花がつけたのか」


 源次郎さんは一瞬で事を理解し、なぜか嬉しそうだった。


「美鈴……。美鈴か、いい名前だ」


 褒められて、なぜだか妙に嬉しくなる。等の本人はさほど気に入っていないだろうけれど、この際関係ない。


 流しの汚れはだいぶ落ちた。タイルもあちこち割れたり欠けたりしているが、ところどころ虹色に光るタイルがはめ込まれている。ただの古い家かと思っていたけれど、美しいモノたちだ。

 源次郎さんが入っていたこの食器棚も、桜の花模様が彫り込まれていた。手でそっと触れると黒い埃が指につくが、磨けばこの食器棚も綺麗なのだろう。


「この食器棚は妻が気に入って、買ったものなんだ。一番上にある茶碗は、私たちが使っていたものだ」


 湯呑が茶碗を使うとはどういう状況なのか、私には想像できなかった。源次郎さんの奥さんって、一体何者だろうか。

 私は首を傾げつつ、茶碗を取り出す。青い模様が入った夫婦茶碗だ。大変だろうが、食器もすべて取り出して一度すべて洗った方がいいだろう。

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