簪の美鈴(02)

「支度をして、出かけるよ」


 美鈴さんはそう言って立ち上がり、階段の方へ足を向ける。


「モモちゃんは留守番。二時間ほどで戻るから、家の掃除をよろしくね」

「え……」


 さっきの言葉が引っかかるも、私は美鈴さんに訊けなかった。いつもそうだ。美鈴さんはぽろりと気になる言葉をこぼす。でもそれがなんなのかは教えてくれない。

 ここへ来てからというもの、私はすっかり美鈴さんに振り回されている。身も心も、だ。

 こんなにもこき使われているのだから、私が掘り起こしたものはとんでもないものだったのだろう。あれがなんだったかも、私はまだ教えてもらっていない。

 この呪縛からいつ解き放たれるのか。それはもはや神(美鈴さん)のみぞ知るところだ。


 美鈴さんは着物を脱いで普通の服に着替えて降りて来た。ゆったりとしたデニムパンツに赤色の無地のセーター。黒いダウンジャケットを羽織っている。

 こういう格好をしていると、道中で普通にすれ違っても違和感はない。ただずば抜けて美男子であることには変わりない。


「どこへ行くんですか?」

「それはね、ないしょ」


 靴を履き、私の方を振り返る。


「さぼっちゃダメだからね」


 笑顔で手を振りって、戸を閉めた。


 やれやれ。

 美鈴さんは自由気ままで、やっぱり猫みたいだ。


 外にいるとき同様、しっかりと厚着をして手袋もしてゴミ袋を掴む。他人の家を掃除するとは、どう手を付けていいのかわからなかった。

 居間にあるものを一通り確認して、明らかにゴミだと判断できるものをゴミ袋に入れていく。居間はモノが少ないので、次はキッチンだ。

 狭いキッチンにある食器棚には食器がぎゅうぎゅうに詰まっている。ほとんど使っていないのだろう。食器棚の扉を開けて一枚皿を取る。指で触るとざらざらして、指が黒くなった。すごい埃だ。

 食器は少し捨てた方がいいだろう。でも、どれを捨てていいのか私にはわからない。勝手に捨てれば、美鈴さんに怒られるだろう。


「外の用事なら私が済ませて来るから、美鈴さんが家の片づけをすればいいのに」


 本人に直接言いいなよ、と自分で自分に突っ込みを入れる。


「二階は片づけなくてもいいのか?」


 ……え?


 男の人の声がした。美鈴さんの声ではない。美鈴さんに触れられたときとはまた別のゾクゾクが全身を襲う。今私に話しかけたのは……誰だ?

 恐る恐る振り返ってみる。でも誰もいない。

 空耳か?

 いや、結構はっきり聞こえた。空耳のはずがない。

 キッチンをぐるりと見回す。汚れて黄ばんだ天井。流し台の黒ずんだ汚れ。あちこち剥がれたり割れたりしたタイル。ガスコンロ周りも何やらこびりついた汚れがある。

 こういうところを掃除しなくちゃいけないのか。


「ここだ、ここ」


 おーい、という声は食器棚から聞こえた。

 再び食器棚を開けると、重なり合う食器が触れ合いカチャカチャと音がする。


「ここだ」


 カップやソーサーが並ぶ列の奥に、小さな箱がある。どうやら声の主はそこらしい。そっと箱を持ち上げると、ずっしり重たい。何が入っているのだろう。

 木の箱に紐がかかっている。ほどいて中を開けると、歪な形の湯呑が出て来た。


「……湯呑?」


 持ち上げると、湯呑からにゅっと手足が生えて来た。


「きゃっ!」


 思わず手を離すと、湯呑が空中に飛ぶ。落とすなー! と悲鳴が聞こえ、私はとっさにまた湯呑を掴んだ。


「割れ物なんだから、丁寧に扱ってもらわないと困る!」


 湯呑を持つ手が震える。

 慌てて流しに湯呑を置くと、生えた両足で立ち上がる。


「そんなじろじろ見るな」


 なんだ、何がどうなっているんだ。夢か、これは。


「だからじろじろ見るなと言っているだろう」

「そう、言われましても……」


 つい、話しかけられものだから返事をしてしまう。返事をしてからすぐに、私はなぜ湯呑と話しているんだ、と我に返る。

 私は混乱する頭で、必死に現状を理解しようと努めた。でも無理だ。どう頑張っても、これはありえない。美鈴さんが簪だったと言われるより、ありえない。だって、しゃべっているのは湯呑だ。それに、逞しい筋肉質な手足が生えている。これはもう、化け物だ。


「裸なんだから、そんなに見るなと言っているんだ!」


 ――裸!!


 私は慌てて湯呑さんから目を逸らす。


「し、失礼しましたっ」


 謝ってからまた我に返る。

 湯呑が裸ってどういうことなんだ。湯呑は服なんて着ない。


「そこの腰巻を取ってくれないか」


 腰巻? 腰巻って、どれだ。

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