第二章 簪の美鈴
簪の美鈴(01)
閑静な住宅街に、ぽつんと取り残されたように佇む古民家――〈物語り屋〉。一見、空き家のように見えるが違う。ここはお悩み相談所。ただのお悩み相談所ではない。悩みを聞いてもらうだけなら無料。でももし、話してスッキリしなければ、妖しい店主の美鈴さんがどんな望みも叶えてくれる。その望みがたとえ報復だったとしても。ただし、それなりの報酬が必要になる。報酬は、大切な思い出の一日だ。
私がここへ迷い込んで一週間以上になる。店主の美鈴さんは超がつくほど美男子で、掴みどころのない不思議な男。わからないことが多すぎて、毎日美鈴さんに振り回されている。
玄関横に〈物語り屋〉と書かれた看板があるが、字は薄く消えかかっている。なんだか汚い。汚れている。A四サイズほどの木の看板は軽く、ひょいと持ち上げられた。指先で汚れを払い、再び戻す。
美鈴さんって本当に昔飼っていた猫みたいだ。ちょっとデレっとしたかと思えば、急に本気になったりして。美鈴さんは爪を立てて引っ掻いたりしないけれど、時々口から飛び出す言葉に胸を刺されたりはする。
そう思いつつ引き戸に手をかけた。何やら中から大声が聞こえる。お客さんが来ているのだろうか。
引き戸を引こうとした瞬間、中から人が飛び出してきた。
突き飛ばされ私は尻餅をついた。手に持っていた缶コーヒーが道にコロコロと転がっていく。
「……すみません」
黒髪に空色のコートを羽織った彼女は、小さな声で謝り走り去った。長い髪をひとつに束ねており、青い花の髪留めがついている。
……なんだったんだ。
私はその後ろ姿をじぃっと見つめていた。
「慌てて出て行っちゃったね」
玄関口に立っていた美鈴さんが、尻餅をついたままの私を見ながらそう言った。
「大丈夫?」
「一体、何事ですか?」
私は立ち上がり、転がった缶コーヒーを拾い上げた。少し凹んでいるが、別に問題はない。零れなくてよかった。
駅前の自販機で買った缶コーヒーでささやかな暖を取りながら、靴を脱いで玄関から上がる。部屋の中があまりに寒すぎて、温かい飲み物を口にしなければ凍死しそうだ。
毎日薄手の着物姿の美鈴さんは、寒さを感じないのだろうか。美鈴さんに触れられたときは、身体の芯まで凍りそうだった。
美鈴さんは人ではない。
そうとわかっているのに、美鈴さんの姿を見るたび私はドキドキしていた。人ならざる美しさ。妖しい男。でも、美鈴さんが人ではないなんて未だに信じがたい事実だった。
「さっきの人、どうしたんですか」
泣いていたようだった。何かトラブルだろうか。
「お客さんだったけど、断ったよ」
「断った?」
すかさず、訊き返す。
この約一週間、〈物語り屋〉を訪れる客は私の予想以上に多かった。それも、絡んで縺れて解けないくらい厄介な相談ばかりだった。それでも美鈴さんはとことん話を訊き、どんな願いでも快く請け負っていた。報復を請け負うくらいだ。それなのに、今回の一件を断るなんて。厄介な話だったのだろうか。
「僕だって、やりたくない仕事は断るよ」
いつもの椅子に座り、ふぅっと白い煙をまき散らす。美鈴さんが、かつて江戸の吉原にいた清葉という遊女の簪だったなんて、やっぱり信じられない。
「どんな相談だったんですか?」
「いつもと大体同じかな。男と女の色恋沙汰のトラブル」
またか。ここに来る客のほとんどが恋愛関係の悩みを抱えてやって来る。大抵は浮気や不倫、恋愛のいざこざばかりだ。
「モモちゃんは、報復の仕方をまぁそれなりに理解し始めて来たよね?」
「そうですね……一応は」
煙草も煙管も興味はないし、そもそも私は喫煙者ではない。だけどなぜか、美鈴さんが煙管を吸っていると目が離せなかった。ゾクゾクする。
「僕は報復は請け負うけど、殺しは専門外だよ」
「こ、殺し?」
煙をもろ吸い込んでしまい、咳き込んだ、涙が出る。
「さっきの彼女、報復の仕方を指定してきたんだよね。愛する男が浮気をして他の女に走り、今では連絡が取れない状態らしい。住んでいる家だと言われた場所にも住んでおらず、今はさらに別の女と交際しているんだとか」
なるほど。だから男を殺してほしいと言ってきたのか。当たり前だが、美鈴さんは殺しはやらないらしい。美鈴さんの仕事が必殺仕事人だったら、助手の私もいつか逮捕されてしまう。それは困る。犯罪に加担したくはない。
「惚れた病に薬なし、ってところだね」
美鈴さんはそう言って薄っすら笑う。
もう握りしめていた缶コーヒーが冷めてきた。とりあえず開けて、一口飲む。多少ぬるくなってもこの極寒の家の中なら身に染みる温かさだ。
「誰かを好きになれるだけで、幸福なことなのに」
ふぅ、とため息をつくように吐くと煙がゆらゆらと揺れる。そして優しく煙管の灰を落とした。
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