椿の下には(26)

 その晩、私はあの古民家の前に立つ夢を見た。

 古くて大きな家に、椿の花。

 花を見つめる美鈴さんの横顔。


 短い夢だったけれど、美鈴さんの姿が強烈に印象に残った。


 会いたい。美鈴さんに。

 目覚めてすぐ思い立ち、私はまた、美鈴さんの家へと足を急がせた。


 ――リン


 着物から覗く白い素肌と、唇に咥えた煙管の煙が同じ色だ。

 遊女。美鈴さんは言っていた。江戸時代、とある遊女が持っていた一本の簪から自分は生まれたのだと。大切にされた簪だったのだろう。美鈴さんを見ればなんとなくわかる。


「モモちゃんは、なかなか僕を忘れてくれないね」


 忘れるなんて、絶対に無理だ。美鈴さんは、まるで一輪の花みたいに美しく儚い。一度見たら、忘れるなんてことはできない。


「忘れられませんよ、そう簡単には」

「僕は、人とえにしを長く結べない」

「縁?」


 ふぅ、と甘い吐息を吐くように鈴音さんの口から煙が流れる。


「僕は前に言った通り、人じゃない。僕と人が出会うということは、道端に落ちているモノを拾う程度の縁なんだよ」


 煙が私の気管支に入り、軽くむせた。それを見て美鈴さんはくすっと笑い、私に丸いわっかの煙を吐いた。


「人は僕を簡単に忘れる。僕もこの家も、家具や細かいモノたちもすべて、忘れられた道具に過ぎない」

「私は、」


 大事な言葉を言いかけて、また煙を吸ってしまった。苦しい。


「私は忘れませんよ、美鈴さん……あ、ごめんなさい。この名前は嫌いですよね」


 煙がゆらゆらと部屋の中を漂う。私はそれを目で追った。


「変な縁もあるもんだね。僕に名までつけちゃうなんてさ」

「それじゃあ、何か好きな名前はないですか?」


 美鈴さんが好きな名前で呼んだ方がいい。私なんかのアイディアじゃ、不満だろう。猫と同じ名前だし。


「モモちゃんが美鈴と名付けた時点で、僕はもう美鈴だよ。他の何者でもない」


 美鈴さんは優しく子猫を撫でるように煙管の灰を落とした。


「モモちゃんはここへ来る選択をした。だから、働いてもらうよ」


 一瞬、ぐらぐらと部屋が揺れた気がした。地震ではない。私の中の何かが変わった。何とははっきりと言えないけれど。


「さ、仕事だよ」


 玄関から「すみません」と声がした。また、悩みを抱えた客人がやって来たのだろう。

 美鈴さんはふっと柔らかく微笑んだ。

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