椿の下には(25)

 ホストクラブでの支払いを終えると、分厚い封筒の中身は半分くらいになってしまった。それでも百万円以上もある。一晩、いや、ほんの一時間くらいでずいぶん大金を使ってしまった。もう二度と、こんなことは起こらないだろう。

 金曜の夜というだけあって、街中人で溢れていた。


「あしたから、来なくていいよ」


 信号待ちをしていると、ふいに美鈴さんは言った。

 私はびっくりして言葉を失う。また、失業するのか。いや、今やっているのが仕事とは言えないけれど。


「今着ている服や靴や鞄を売り払えば、もう一か月くらい無職でもやっていけると思うよ」


 ええ、と私はうろたえる。


「今の言葉、〈必然〉だと思う?」


 にやり、と美鈴さんは笑う。

 冗談なのだろうか。私はドキリとした。


「僕はね、運命って言葉が嫌いなんだ」


 唐突にそう言う美鈴さんは、ただ単純に運命という言葉を呪っているようには見えなかった。


「運命を信じたら、悲しい結末も運命になってしまう。運命って言葉は、無責任だよ」


 私はこれまで流れに身を任せて、なるようになる人生を送って来た。来るものは拒まず、去るものは追わず。手の中に入って来るもの、すり抜けていくものはどれも私の意思で変えられるとは思えなかった。それが運命だ、と。

 でも、美鈴さんは違う。美鈴さんは運命を嫌い、自分自身の行動ひとつひとつに責任を持っている。私は卑怯者だ。ただ流れに身を任せるだけの人生は、楽だ。なんの責任もない。ただ流される方へ行けばいい。


「何を〈必然〉と思うかは個人の自由だよ。運命という言葉を受け入れるかどうかも。でも、流れに身を任せるままに受け止めていては、自分の運命さえも流されちゃう。〈必然〉さえも、自分で選び取るんだよ」


「……ちょっと待ってください。私、今気づいたんですけど、」


 何? と美鈴さんは私を見る。


「私の会社の社長が捕まったのは、誰かからの依頼ってことですよね?」

「なぁんだ、そんなこと。もうとっくの昔に、気づいてると思ってたよ」


 美鈴さんに依頼した人が誰かはわからないが、社長は誰かから報復を受けて捕まった。だから美鈴さんは私の会社に入って偵察していたのだ。

 誰かが報復を願ったために、私は職を失った。私だけじゃない。同僚の橋本さんも、上司の酒井さんも。報復によっては、無関係の人にも影響する。今回の一件も、もしかしたら同じ被害に遭った人がいるのかもしれない。


「報復は無意味だ、という顔だね」


 なぜいつも私の心の内がわかるんだろう。そんなに顔に出ているのだろうか。


「他人を考えて生きちゃダメ。自分中心に考えるんだよ」


 なんて自己中心的な考え方なんだろう。ある意味潔い。

 美鈴さんは笑って「どのみち、あの社長は逮捕されただろうしね」と言った。


「モモちゃん、」


 名前を呼ばれて、美鈴さんの方を見る。白い美鈴さんの指先が私の顔に近づいてきて、額にそっと触れた。冷たい。氷を直に当てられているみたいだ。でも次の瞬間に、私の中に何かが流れ込んできた。

 夜景が見えるレストラン。高いビルの上から見下ろすと、辺り一面に星をばら撒いたようだった。真っ白い上質なテーブルクロスの上には「Will you marry me?」と書かれたケーキが置かれている。生クリームたっぷりのイチゴのケーキだ。

 目の前には頬を赤く染めた真澄さんがいた。綺麗に化粧をして、上品なワンピースを着て、爪は可愛い花柄ネイル。

 私は真澄さんにそっと黒い小さな箱を差し出した。

 真澄さんは嬉しそうに微笑んでいる。私は箱から大粒のダイヤモンドが輝く指輪を取り出し、真澄さんの左手薬指に滑らせた。指輪はぴたりとはまった。強く光り輝いて、思わず見惚れてしまうほどだった。

 はっとして瞬きすると、目の前にいた真澄さんは美鈴さんに変わっていた。

 ほんの一瞬だったけれど、誰かの記憶が流れ込んできた。


「これは……濱崎さんが美鈴さんに支払った記憶ですか?」


 美鈴さんは答えなかった。でも、私にはわかる。間違いない。濱崎さんはプロポーズした思い出の日を美鈴さんに渡したのだ。


「佳奈さんも同じ。幸せで悲しい記憶を僕にくれた」

「……え? 佳奈さんも、お客さんだったんですか?」

「そうだよ。佳奈さんは恋人が浮気していると思うから、それを突き止めてほしいと一番最初に相談してきたんだ。僕が呼ばなきゃ、あの公園に全員集合するはずないでしょ。モモちゃんって、本当に面白いね」


 よしよし、と美鈴さんに子どものように頭を撫でられる。私はしっしとその手を払い退けた。


「あしたからはモモちゃんの好きにして。〈必然〉を選んで」


 美鈴さんはそう言って、革靴の音と鈴の音を響かせながら街中へと消えて行った。

 私は、いつまでもその音だけを聞いていた。

 濱崎さんの記憶が頭から離れない。あの夜景も、指輪も、ケーキも。どれほど幸せな思い出だっただろう。何もなければ、一生忘れたくない思い出だったはずなのに。

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