椿の下には(23)

「愛はお金では買えないよ。僕、さっきも言ったよね。お金は働いて稼げば手に入るよ。だけどまぁ、稼ぐってことは簡単じゃないけどね」


 でもね、とスマホを上着のポケットにしまいながら美鈴さんは言葉を続けた。


「後悔するべきはそこじゃない。本当に自分を愛してくれる人を失ったこと。そこだよ」

「……え?」


 真澄さんは涙を手で拭い、ゆっくりと立ち上がる。膝についた砂を軽く払った。


「人生は短い。すれ違うだけの人も合わせれば膨大な数の人と出会えるけれど、さて、自分のことを無条件に愛してくれる人と、一生のうちどれだけで会えるかな」

「それは……どういう意味?」

「真澄さん、あなたはそんな人との縁を自分から簡単に切った。浩人さんにされたことと、同じことをしたんだよ」


 リン、と鈴の音が聞こえた。透き通る鈴の音が公園の中にこだまする。一瞬で、怒りに満ちたこの空間が鎮まり返るような気がした。


「一生、後悔し続けたらいい」


 濱崎さんはそう言って背を向け、公園を出て行く。その背中は、巨大な悲しみを背負って重たそうに見えた。足取りも軽くはない。透明な鉛をつけているようだ。


 ふわり、ふわりと雪が舞い降りる。手のひらを出して雪を受け止めると、私の体温で溶けて消えた。

 その場にいた誰もが無言になった。

 私は取り残された真澄さんを見て、視線を逸らす。とても、見ていられなかった。今どんな気持ちなのか、想像できるけれど私には全部はわからない。心が痛むだろうけれど、どれほどの痛みなのか同じように感じることはできない。

 真澄さんは、ただ茫然と濱崎さんが去って行った方を見つめている。

 どうしよう。声をかけたいけれど、なんて言っていいのかわからない。私なんかが声をかけるべきではないとわかっている。わかってはいるけれど、私は彼女を抱きしめたい気持ちでいっぱいだった。


 しばらくして、真澄さんもゆっくり歩き出た。一度もこちらを振り返らなかった。


「浩人さん、僕はホストの仕事もよくわからないし、その仕事自体を批判したりはしない」


 美鈴さんは笑顔でそう声をかけた。

 私が知るエイジくんの姿は、もうどこにもいない。光のない目で美鈴さんをぼんやりと見ている。


「だけど、恋に不誠実な人は大嫌いだ」


 美鈴さんの顔から笑顔が静かに消え失せた。声色や言葉に棘はないのに、その表情だけで私は刃物を背中に突き付けられるような恐怖を感じた。

 エイジくんはただ黙ったままだ。唇の隙間から吐く息だけが白く浮かび上がっていた。


「恋をするとみんな、醜くなっちゃうね」


 そう言って私の方を見る。美鈴さんの顔にはもう笑顔が張り付いていた。その切り替えの早さがまた恐ろしかった。


「さて、次はモモちゃんの番だよ」

「……次?」


 私はカラカラになった喉で絞るように声を出す。


「彼に言いたいこと、あるんじゃない?」

「言いたいこと……」


 私は今目の前で起こった出来事がまだ処理できていない。いろんな感情が鬩ぎ合い、頭の中が大混乱だった。


は、私だけのもの?」


 美鈴さんが私の耳元で囁く。

 エイジくんは私だけのもの。

 心の中でもう一度声にすると、はっきりとした違和感があった。


 私がエイジくん――いや、浩人さんに対して、恋的感情を抱いていたのは間違いない。優しいし、カッコいいし、聞き上手。歌も上手い。素敵な誕生日プレゼントをくれた。この人が私の恋人ならいいのにな、と何度も思った。だって、もともとないお金をつぎ込んででも浩人さんに逢いたいと思ったくらいだ。

 だけど、今はなぜそこまで浩人さんにのめり込んでいたのかわからない。ホストに恋をした時点で、私だけのものではないと初めからわかっていたし、本命の彼女がいたことや私よりうんとのめり込んでいた真澄さんを見て、私の想いの小ささに気がついたからなのかもしれない。


 誰かのことを強く想ってみたかった。

 真澄さんの言葉を思い出す。私もそうだったのかもしれない。真澄さんにとってその相手は浩人さんだった。でも、私にとってその誰かは違う誰かなのだろう。


 私はネックレスを外した。手のひらに乗せると、暗がりでもダイヤモンドはきらりと輝いている。綺麗だ。

 私は浩人さんにそのまま差し出す。浩人さんは虚な表情で素直に受け取った。


「……ありがとう。いい経験ができました」


 思わず涙が溢れる。視界が霞んで見えた。

 私にとって小さな恋の蕾だった。花が開く前にダメになってしまったけれど、それは紛れもなくひとつの恋だった。


「じゃあ、帰ろうか?」


 涙を指先で拭う私に、美鈴さんが手を差し出す。私はなんの躊躇いもなくその手を取った。

 私は美鈴さんに支えられて、公園を後にする。

 美鈴さんの言う通りだった。きょうは特別綺麗な格好をしておいてよかった。こんな日にいつものくたびれたセーターを着ていたら、もっと惨めな気持ちになってしまう。


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