椿の下には(22)
「浩人……? じゃ、じゃあ……全部嘘なの……?」
私も驚いた。なぜって、エイジというのは本名をそのまま使っていると聞いていたからだった。すっかり本名だと思い込んでいたのは、私だけではなかったようだ。
真澄さんはその場でへなへなと座り込む。その様子を見て、濱崎さんは大きなため息をついた。
「どうしてこんなことになったんだ……。俺たち、順調だったじゃないか」
「……順調じゃ、なかったよ」
真澄さんのか細い声がした。さっきまでの勢いは全くない。
「順調じゃなかった……? そんなわけないだろ! 俺たちは婚約したじゃないか!」
「徹さんはいい人だけど、恋はできなかったの!」
真澄さんはそう言ってすすり泣いた。
濱崎さんは頬を殴られたようによろめく。
「私は今まで一度も、恋という恋をしたことがなかった。だけど、親は結婚を望んでいて、縁談を持ってくる。これまで親が持ってきた縁談はどれも最悪だったけど、徹さんとは友達になれたから、結婚しても大丈夫だと思ったの。でもエイジに……彼に出会って、私はこれが恋だって思えた。それでわかった。私はずっと、誰かのことを強く想ってみたかったんだって」
その言葉を聞いて、濱崎さんはさらに声を荒げた。
「こんな男のどこに惚れるって言うんだよ!」
濱崎さんがエイジくんを指差す。
「ホストなんて口先だけだ! 彼には本命の彼女がいたんだぞ! 真澄を騙して、結婚したいようなことを言って……。ろくな人間じゃない! どうして俺より彼がいいんだよ……!」
私はつい呼吸を忘れるほど、ふたりの会話に聞き入ってしまった。なぜか胸がドキドキする。手のひらにはじんわりと汗をかいていた。
「私は……浩人がホストをしてるって、今まで知らなかった」
佳奈さんは真澄さんを見て、ぽつりとつぶやく。
「もう、終わりにしよう」
大きく息を吸い、はっきりと言い放つ。白い息が浮かび上がる。
「ちょ、ちょっと待ってよ! これは仕事だよ。ホストっていう仕事だから、仕方なかったんだ!」
エイジくんは慌てた様子で佳奈さんの手を握った。
「佳奈だけが本当の彼女に決まってるだろ」
「……確かに、仕事かもしれないよ。だけど、私がそんな人と付き合っていたいはずないでしょ……! お金を稼ぎたかったなら、他にいくらでも仕事はあるじゃない! 大体、私が知ってる浩人はそんな人じゃなかったよ!」
佳奈さんは泣きながら手を振りほどく。
「もうとっくに心の整理はできてる。それくらい、私をずっと放っておいたくせに! もう、勝手にして。ホストを続けてお金儲けでもして、好きな人と結婚したらいい」
さようなら、と佳奈さんはくるりと背を向けた。エイジくんは弱々しく手だけ佳奈さんの方へ伸ばしているが、言葉をかけられないらしい。薄っすらと口を開け、固まっている。
佳奈さんは一度エイジくんを振り返るが、言葉を失う彼を見て虚しく笑った。そして、そのまま公園を出て行った。
「こんなの……酷すぎる……。私は本気だったのに……」
地面に座り込んだまま真澄さんが言った。
「それはあなただけじゃないよ、真澄さん。ここにいる全員が傷ついてる。濱崎さんはあなたに婚約破棄されたんだよ?」
美鈴さんは真澄さんに問いかけた。しかし、真澄さんは首を振った。
「償うって言ってるわ。慰謝料は払うんだから」
「償うって意味、ちゃんとわかってる?」
「わかってる……!」
本当かな、と美鈴さんはニヒルに笑う。
「慰謝料としてお金を支払ったら、償ったことになると思ってない? それに、そのお金は自分で稼いだお金かな?」
美鈴さんはそう言って胸ポケットからスマホを取り出した。
「この、馬鹿者がっ!!」
スピーカーにされたスマホから怒り狂う男性の叫びが飛んでくる。私は驚いてつい後ずさった。
「自分が何をしたのかわかってるのか!? 勝手に婚約破棄した挙句、ホストに大金を使っていたなんて! その金はお前の金じゃない! 親である私が稼いだ金だ!」
「……え、お父さん……?」
真澄さんの顔がみるみるうちに青ざめていく。ピンク色の小さな唇が震えていた。
「自分の愚かな娘がしたことだ。慰謝料は私が支払う。徹くん、本当に申し訳なかった。こんな娘で……恥ずかしい」
真澄さんの父親の声に、濱崎さんはただ黙って聞くだけで何も答えなかった。
「真澄、慰謝料とこれまで遊んだ金全額、きっちりお前に請求するからな!」
ブチ! と勢いよく電話が切れた。
「だそうです」
美鈴さんは相変わらず涼しい笑顔だった。
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