椿の下には(20)
「今のは何?」
オールコールが終わった後、エイジくんはあからさまに機嫌が悪そうだった。やはり、あの時私が見た光景は現実だった。白昼夢ではない。そして、私には触れてほしくないことだったらしい。いや、少なくともマイクで聞くべきではなかったから機嫌を損ねてしまったのだろう。
「ごめんなさい、この間見かけたから……つい」
私は演技を忘れて謝った。
ッチ、と小さかったが舌打ちしたのが聞こえた。
今までこんなに機嫌が悪いエイジくんを見たことがない。いつもの笑顔がないと、柄の悪い男に見えてしまった。
エイジくんは何も言わず、他の客に呼ばれて席を立った。
「はじめまして、ジンと申します」
担当がいなくなった席へ笑顔でやって来たのは、美鈴さんだった。向かいの椅子に座ってもう一度私に向かってにたりと笑う。
なんで美鈴さんがホストをしているのか。大体、ジンって源氏名はなんだ。
「ちょっと! これはどういうことなんですかっ」
私は小声で訊ねる。
「いやぁ、なかなかに痛い発言だったねぇ。演技できるじゃん。……もしかして、本気のやつだった?」
あはは、とのんきに笑う。
「笑い事じゃないですって!」
私は今にも泣き出しそうだ。
「じゃあ次はね、他の客と喧嘩してもらおうかな」
「何を言ってるんですかっ」
「ほら、聞いててよ?」
そう言って、美鈴さんはしーっと唇に人差し指を当てて、席を立つ。誰かがシャンパンを入れたらしい。オールコールで全員がぞろぞろ集まっていく。
再びヨイショー! と威勢のいい声が響く。
「誰かが私のエイジを困らせてるみたいなんで、やめてもらえますか」
なんと、先ほどの私の発言に苛立った被り客が、どこかの席で高いシャンパンを入れている。私に対して怒っているのだ。ものすごい不機嫌な声だった。
怖い。もう帰りたい。
女たちの嫉妬心がドロドロと店内を這いずり回っているような気がした。粘っこくて、私の身体に纏わりついてくるのを感じる。
「きょうはこれからシャンパンコール合戦になりそうだねぇ」
美鈴さんがまた戻ってきて、楽しそうに笑っている。
私は「お会計を……」とつぶやいたが、美鈴さんに無視された。
「エイジくんは私だけのものですって、次のコールで言って」
美鈴さんはメニュー表を私に差し出した。
「もうやめましょ。私、帰りたいです」
エイジくんにはもう二度と逢わない。ホストクラブへ来てしまった私がいけないのだ。私みたいな女がエイジくんに恋してしまったのも、こんな店に通っていたのも場違いだ。
「逃げないの。ちゃんとぶつからなくちゃ。傷つくのが怖くても」
美鈴さんはそう言って「ご注文、ありがとうございまーす」と叫んだ。
エイジくんが再び席に戻ってきて、隣に座る。いつもならぴったりと寄り添ってくれるが、きょうは距離を感じた。
「またまたーっ! 可愛い姫よりシャンパンいただきましたー!」
イィィィヨイショー! とさらに店内はキャストたちのコールで熱く熱気だっているが、私だけ寒気がしていた。
またマイクを向けられて、私はエイジくんではなく美鈴さんを見た。
さぁ、言って。
美鈴さんの目はそう言っていた。さぁ早く。言ってよ、と訴えかけられている。私はうう、と顔を顰めた。
「……エイジくんは、私だけのものですっ!」
言ってしまった。
私はマイクの前で固まる。怖くてエイジくんの顔は見られなかった。
「ちょっと、何なのあんた!」
キャストをかき分けて、白いニットワンピースを来た茶髪の女性がやって来た。怖い顔をしている。まさに、鬼のような形相だった。
さっきの姫マイクの人だ。
他のキャストたちが彼女の前に立って「落ち着いてください」と声をかけるが、彼女の耳には届いていないようだった。
「さっきから何痛い発言してるの? あんた、今までずっとシャンパンも入れられなかった女でしょ!?」
なぜそれを知っているんだ、と私はさらに怯えて小さくなる。自分で自分の腕を抱きしめた。
「他のお客様のご迷惑になりますから」
美鈴さんがそう言って彼女を自分の席へ帰そうとするが、その手をパンと払い退けて「お金はあとで払うから、あんた、外出て!」と私の腕を引っ張った。ものすごい力だ。私の手首に彼女の爪が食い込む。
「やめてくださいっ! 痛いっ……!」
エイジくんが私と彼女の間に立ち、私たちの手を解いた。
「お願いだから、落ち着いて。ね?」
エイジくんの言葉に、彼女はふぅと息を大きく吐いて、少しだけ落ち着いたように見えた。
「いいから。外、出てよ」
だが、相変わらず怒りは収まらないようだった。
「一度、外へ出てもらいましょうか。僕もついていきます」
美鈴さんは私と彼女を連れて外へ出た。エイジくんも後に続く。
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