椿の下には(19)

「モモちゃん、来てくれたんだね! ありがとう、嬉しいよ」


 エイジくんはいつもと何も変わらなかった。眩しいくらいの笑顔を私に向けてくる。

 あれ、もしかして勝手に気まずい思いをしていたのは私だけ? あの日見たのは、エイジくんに似てる誰かだった?

 もしかしたら、そうかもしれない。嫌な白昼夢を見ていただけなのかもしれない。


「きょうはいつにもまして綺麗だね、モモちゃん」


 さっきも誰かに同じようなことを言われたなぁ、なんて心の中でつぶやいて私は笑ってごまかした。


「そのネックレス、つけてくれてるんだね。よく似合ってるよ。これ見た瞬間に、モモちゃんに絶対似合うって思ったもん」


 次から次へと甘い言葉が飛び出してくる。

 正直、嬉しい。だけどこれは仕事だ。私のしていることが、どんな仕事に結びつくのかさっぱりわからないけれど、美鈴さんは仕事だと言っていた。

 私はエイジくんの言葉にはあまり反応を見せないよう、胸の前に手を置き、先ほど美鈴さんに言われた言葉を心の中で唱えた。


 私はお金で男を買うお嬢様。私はお金で男を買うお嬢様。


 手の中に握りしめていたメモ用紙をちらりと盗み見る。


 一、なるべく高いシャンパンを頼むこと。

 二、気難しい客を演じること。


「何、それ?」

「い、いや。なんでもない。それより、メニュー見せて?」


 ヘルプのキャストが私にメニューを広げて見せる。

 大丈夫。ここに三百万円も入っている。この間のギリギリカツカツな状態ではない。


「じゃあ、これ持って来てよ」


 私は少しぶっきらぼうに注文した。誕生日に注文したのと同じシャンパンだ。


「ありがとうございます」


 私はもう一度、メモ用紙を確認した。


 三、姫マイクの際には痛い発言をすること。


 なんだ、これは……。

 たった三つだけ書かれたメモ用紙に、私は愕然とする。

 シャンパンコールの際に渡されるマイクを、通称姫マイクという。高級シャンパンを頼むと、店にいる全キャストが注文客のテーブルについてコールをする。たとえ大切な姫が来ていたとしても、全員必ずやって来る。それが以前誕生日のときにやった、オールコールだ。ここは三十万円以上のシャンパンを入れるとオールコールができる。ホストクラブへ初めて行ったとき、ホスト狂いの友達にホスト業界の専門用語をたくさん教えてもらった。最初こそ混乱したが、通ううちに自然と身についていった。


「きょうは何かのお祝い?」


 いつもの私のお金の使い方を知っているからこそ、エイジくんは不思議に思ったようだ。不思議に思って当然だ。毎月数万円しか使えなかった女が、突然何十万もするシャンパンをなんでもない日に入れるんだから。それに、今月二度目の高級シャンパンだ。


「そう。お、お祝いなの」


 ダメだ。エイジくんに話しかけられると、つい、犬のように舌を出して尻尾を振ってしまいそうになる。


「い、いいでしょ、別に」


 私は美鈴さんに言われた通り、気難しい女を目指して演じた。でもこれでは、ツンデレみたいでなんだかおかしい。


「なんか、きょうはいつもと違うね?」


 首を傾げているエイジくんに何も言えず、私は黙って足を組んでみた。

 どうしよう、高いシャンパン頼んじゃった。

 それにしたって、痛い発言ってどうしたらいいの? 痛い発言って何?

 キャストたちがぞろぞろと私の席に集まってきた。ヨイショー! と威勢のいい掛け声が響く店内で、頭の中が真っ白になる。せっかくのオールコールなのに、私は自分の膝を見つめていた。ドレスの下で小刻みに震えている。


「なんとなんとっ! 可愛い姫よりシャンパンいただきましたー!」


 ふと顔を上げると、見知った顔が混ざっている。

 美鈴さんだ。

 なぜかキャストの中に美鈴さんが混ざっている。


「え、ええ……?」


 私は思わず声を漏らした。

 そばにいるって、こういう意味だったのか。まさかホストになってそばにいるという意味だとは、想像もしていなかった。めちゃくちゃいい笑顔で、歌って踊っている。私は思わず笑いそうになってしまって、また俯いて笑いを堪えた。

 少し、ホッとした自分がいた。なぜなのかわからない。でも、美鈴さんがいてくれるのなら大丈夫。そう思えてしまった。だけどよくよく考えてみたら、私は美鈴さんをよく知らない。なぜ安心できるのかもわからなかった。


「可愛い姫より! ひとことお願いします!」


 マイクを向けられて、私は一瞬固まった。

 痛い発言というのは、キャストを困らせる発言という意味だろう。私の頭の中に浮かんだ言葉は、ひとつしかなかった。


「……この間、デートしてた相手はエイジくんの彼女?」


 エイジくんの表情が曇り、その場に冷たい空気が流れるのを感じた。

 やってしまった。本当に、痛い発言だ。

 店内に響く私の声。痛い客が来ていることが知れ渡ってしまった。


 ヨイショー! とキャストたちが大声で盛り上げるが、明らかに盛り下がっている。

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