椿の下には(15)
「僕は清葉という遊女が使っていた、一本の簪だった。生まれたのは江戸時代」
「江戸……時代ですか」
話に追いつけない。この人は何を言っているんだ。
「えっと……お名前は」
気が動転して、思わず名前を訊ねてしまった。普通の、できればありきたりな会話に話を戻したい。
「名前はない」
名前はない。
吾輩は猫である。名前はまだない。
普段読書なんてしないのに、そんな言葉がぽんと頭に浮かぶ。
「モノだったんだから、名前なんてないよ」
ふふ、と彼は笑う。だけどその笑みはどこか寂しそうに見えてしまった。
名前がなければ、なんと呼べばいいのだろう。非常にやりにくい。
「それなら……美鈴さんと、お呼びしてもいいですか?」
「何だって?」
彼は大きく見開いた瞳を私に向けた。ひぃ、と私は思わず身を縮める。怒られる、そう思ったからだ。
「ごめんなさい。でも、名前がないと声をかけにくいので……」
彼――美鈴さんはこの名前が気に喰わないのかもしれない。美鈴さんと呼ぶのは、私の心の中だけにした方がよさそうだ。
「どうして、美鈴?」
「きのうから、あなたに会うと鈴の音が聞こえるんです。リンって、綺麗な鈴の音が……」
私が答えても、美鈴さんは何も言わない。そんなに嫌な名前だっただろうか。
「女っぽい名前ですかね? 実は、昔飼ってた猫もオスだったんですけど、美鈴って名前をつけて……」
美鈴は真っ白い猫で、瞳は青かった。家の近くの下水路で泥だらけになって鳴いていたところを私が見つけた。六月の雨が多い時期で、そのまま気が付かなかったら美鈴はきっと死んでいただろう。まだ生まれて間もない美鈴は片手でひょいと持ち上げられるほどに軽く、やせ細っていてみすぼらしかった。家に連れ帰って泥を洗い流すと、真っ白い子猫だった。成長していくにつれて、どんどんと美しい猫になっていった。
性格は気まぐれで、ちょっと神経質なところがあって、でも甘え上手だった。私たち家族はみんな美鈴の虜だった。
「僕は猫と同じ名前なんだね」
突然そう言って沈黙を破った。薄っすらと笑っている。
「すみません、やっぱりさっきの名前はなかったことにしてください」
美鈴さんは謝る私を見て「名前っていうのは、一度付けたら取り消しなんてできないよ。名前をつけるっていうことは、それほど大事なことなんだ」と言った。
それから美鈴さんはまた黙って庭の椿を見つめた。私はなんて声をかけていいのかわからず、ただ押し黙って、部屋を見渡す。
外から見た家の雰囲気もそうだったが、部屋の中も過去に取り残されているように古めかしい。この二脚の椅子もテーブルも、壁に掛けられている絵も、大きな時計もアンティークだろう。床は踏むとぎしぎしと嫌な音を立てている。レースのカーテンはところどころほつれて破れていて、もう何年、いや何十年と取り換えられていないように見えた。
時計の針の音だけが、部屋に響いている。静かだ。静かすぎて落ち着かない。
「あの……」
沈黙に耐えきれず、私は声をかけた。
返事はしないが、美鈴さんは首を傾げて私の方を見る。
「濱崎さんの思い出は、もらったんですか?」
「確かに、もらったよ」
あの一瞬で他人の記憶をもらえるなんて。やっぱり、美鈴さんは人ではないのだろう。普通の人にはできない、特別な力を持っている。
「どんな思い出だったんですか?」
濱崎さんは、自分の人生のどの日を美鈴さんに渡したのだろうか。大切な思い出の一日、だ。失くしたくないものばかりだろう。どんな日を選んだのか、ものすごく気になった。
「幸せで悲しい一日だよ」
美鈴さんは、それだけ言って口を閉ざす。詳しく教えたくないのだろうか。それとも教えられないのか。
「報復したら、濱崎さんに因果応報があるのでしょうか」
私は代わりにもうひとつ気になっていた質問を投げかけた。
婚約者が浮気をして婚約破棄を申し出たのだから、婚約者も相手の男性も罰を受けるのが当然だと思う。でも、報復からは何も生まれない。むしろ、負の連鎖に落ちるだけのような気もする。因果応報が本当にあるとしたら、いつか不貞を働いたふたりには天罰が下るだろうか。
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