椿の下には(14)

 彼は椅子から立ち上がり、濱崎さんの前に右手を差し出した。


「濱崎さんの覚悟、受け取った」


 濱崎さんは首を傾げつつ、差し出された彼の手を握り返す。すると、とたんにぶるっと身震いした。


「目を閉じて。大切な思い出の一日を思い浮かべながら」


 ――リンリン


 鈴の音がより激しく聞こえた。降り注ぐ星のように、雨粒のように、シャンシャンと鈴の音が鳴る。

 濱崎さんの頬を一筋の涙が伝う。まるで流れ星のように、すっと流れ落ちていく。


 何を思い出しているのだろう。濱崎さんは人生のどの思い出を、彼に渡そうとしているのだろう。

 私がそれを知るすべはない。

 濱崎さんはそっと瞼を閉じたまま、安らかな表情をしていた。涙は流しているけれど先ほどとは全く違う。幸せそうに見える。


「さぁ、目を開けて」


 一瞬の出来事だった。そんなにも簡単に、人から思い出をもらうなんてできるのだろうか。私はにわかに信じがたかった。


「もう何も考えないで、帰ってゆっくりのんびりして。美味しいものでも食べてさ」

「……はい」


 濱崎さんはぼんやりした表情で立ち上がり、そのまま帰って行った。私は呆気に取られて突っ立ったままだ。

 しん、と部屋が静まり返る。私は椅子に深く腰を掛け足を組み、優雅にコーヒーを飲む彼を見つめた。


「僕の顔に何かついてる?」


 初めて出会ったときと同じように、彼の顔には笑顔が貼り付けられているがその瞳に光はない。笑顔を向けられているはずなのに、冷たさを感じるのはなぜだ。


「あ、あの……」

「何?」


 何が訊きたいのか、私にもよくわからなかった。

 記憶をもらうことなんてできるのか。

 そもそも、私がさっき見たものはなんなのか。

 彼の職業はなんなのか。

 彼は何者なのか。


「見た通りだよ」


 彼はそう言うけれど、私にはさっぱりわからない。


「悩み相談とか、報復を請け負っているみたいですけど……」

「そう」

「だけど、これじゃ商売が成り立ちませんよ」


 そっとコーヒーカップを置いた彼の動きがぴたりと止まる。私の方に顔だけを向けて、冷たい視線を送った。


「金なんて、無意味だ」

「え……」


 私は思わず声を失くす。

 金は無意味? でも、働く行為は自分の労働に見合った対価をもらうものだ。そして、その対価はお金だ。人が生きていくうえでは、お金は必要不可欠ではないか。食べるにも暮らしていくにも、お金はかかる。


「見てわかったでしょ。僕の商売は特殊でね」

「それはわかるんですが……」

「僕は人じゃないのさ」


 ――リン


 彼が妖しく微笑むと、鈴の音がまた聞こえた。

 冗談を、と言いかけて彼の姿をもう一度見る。

 人ではない何かを信じたことは、今までの人生で一度もない。だけど、彼はそれを信じてしまうほど美しかった。


「知りたい? 僕が一体何者なのか」


 知りたいようで、訊くのが怖かった。

 人でないのなら、幽霊か?

 いや、妖怪?

 いやいや、妖怪なんてものが本当に存在するのだろうか。


「僕はね、簪だったんだ」

「……かんざし?」


 拍子抜けした。簪という言葉が一瞬わからなくなる。


「簪だったって、どういうことですか?」

「よく言うでしょ。人に大切にされたモノには、魂が宿るって」


 いやいやいや。確かに私も聞いたことくらいある。だけど、それで「はいはいそうですか」と簡単に納得できない。

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