椿の下には(13)

「浮気ねぇ」


 彼は砂糖とミルクを入れ、コーヒーを一口飲んだ。


「男でも女でも浮気する人はするし、一生ひとりの人だけっていう人もいるし」


 その言葉に、濱崎さんは「そうですよね」とうなづく。


「婚約者の彼女は、浮気相手に本気なの?」

「それはわかりません。ただ、久しぶりに会った彼女は別人のようで……」

「別人?」

「ずいぶん身なりが派手になっていたんです。ブランドの服やアクセサリーを身に着けていて……。婚約破棄をする自分が一方的に悪いから、もちろん慰謝料は払うと言われました」


 それを聞くと、彼は手をぽんと合わせて「よかったじゃん。たっぷりもらっちゃおうよ」と微笑んだ。


 え! と私はつい大きな声を出して、すぐに口を閉じる。「あれ、なんか違った?」とすぐに彼は私を見て首を傾げた。


「なんでびっくりしてるの? 一方的に婚約破棄を申し出たんだから、当然だよね?」


 ね? と、彼は誰に同意を求めているのかわからないが、私と濱崎さんに向かってさらに問いかけた。


「濱崎さんに非はないわけだし。たんまりもらっちゃえばいいんじゃない?」

「問題は慰謝料とかって話ではないんじゃ……」


 私が細々とした声で言うと、彼はふっと鼻で笑った。


「俺は、金がほしいわけじゃないんです」

「じゃあ、何がほしいの?」


 ――リン


 また鈴の音がした。

 濱崎さんは彼の問いに押し黙る。答えに困っているというよりは、言い出しにくいように見えた。


「悩みを吐いてスッキリするもよし。それならば、相談料は結構です。僕に思う存分ぶちまけてスッキリして、濱崎さんの好きな額を相手に提示して、もしくはごねて裁判に持っていってもいい。あちらの不貞で婚約を解消するわけですから、それもありですね」


 なるほど。ここは、お悩み相談所のようなところなのか。でも、今相談料は無料だと言った。それでは商売にならない。


「でももし、濱崎さんが報復を願うのならば。僕があなたの代わりに叶えましょう。ただし、それなりの報酬は支払っていただきます」


 報復を願うのなら? 誰かの復讐を請け負うのがこの店の仕事だというのか。


「おいくらでしょうか?」


 先ほども濱崎さんはお金がほしいわけじゃないと言っていた。私の周りで親同士が結婚を決めたなんて話は訊いたことがない。たぶん、濱崎さんも濱崎さんの婚約者も財がある家の人なんだろう。


「お金なんて、必要ないですよ」

「お金じゃないんですか?」


 彼はもう一度コーヒーを飲み、窓の外を見つめた。その視線の先にはあの椿の木がある。


「濱崎さんの大切な思い出の一日。それが報酬」


 妖しく微笑んでいる彼を見て、また身体中がゾクゾクした。


 何を言っているのだ。報復してもらう代わりに、大切な思い出の一日を渡す? 一体、どうやって。


「……どの日でも、いいんですか?」

「どの日でもいいよ」


 濱崎さんはしばらく俯いて何かを考えている様子だった。

 いやまさか、濱崎さんは本当に今の話を信じるつもりなのか。どう考えても胡散臭い。あり得ない話だ。


「記憶をもらう前に、ひとつ濱崎さんに訊いておきたいんだけど」

「はい、なんでしょうか」


 彼はまっすぐに濱崎さんを見つめて、真剣な顔つきで言った。


「濱崎さんにとって、報復って何?」


 ずいぶん難しい質問だ。

 濱崎さんもその質問に少し動揺しているように見える。「復讐……ですか」とつぶやき、眼鏡を一度外してかけなおして、しばらく俯いた。


「因果応報という言葉があるけれど、濱崎さんはどう思う?」

「因果応報……」

「それじゃあ、質問を変えようかな。濱崎さんは、報復したらどんな気持ちになると思う?」


 その質問に、濱崎さんの表情が暗くなる。


「報復なんて、やめろと言いたいのですか?」

「いいえ。濱崎さんがスッキリする道を選んでほしいだけ」


 濱崎さんは少しほっとした表情になると、改めて俯き悩んでいる様子だった。


「報復なんて、意味がないと言う人もいます。両親ももちろん怒っていましたが、そんな非常識な家と家族にならなくてよかったとむしろ喜んでいました」


 でも? と彼は訊き返す。彼にはもう、濱崎さんがなんと答えるつもりなのかわかっているように見えた。


「でも、許せないんです。こんなにも、誰かを呪ったことはありません」


 濱崎さんは、憎しみに曇った瞳で彼と私を交互に見た。


「俺は彼女のことが本当に好きだったんです。一途に思っていたんです。それなのに、他の男に走って。そんな女と結婚しなくてよかったとしても、たくさんの慰謝料をもらったとしても、俺は納得できません……。自分がどんなにひどいことをしたのか、思い知ってもらいたいんです! 後悔してほしいんです!」


 ――リン


 鈴が鳴る。

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