椿の下には(12)
玄関口にいたのは、私と同じ年くらいの男性だった。寒さのせいか頬は紅潮しており、白い息を吐いている。やや明るめの茶色短髪、黒縁眼鏡をかけていた。着ている黒いダウンジャケットは高そうだ。
「どのようなご用件でしょうか」
物腰柔らかな口調で彼は訊ねた。
「あの……なんでも相談を聞いてくれるって」
「どんな悩みでも、どんな難解なお話でも、なんでもどうぞ」
眼鏡の彼は家の中をきょろきょろと見まわして、少し怪しんでいるようだった。私と目が合い、私はどうしていいのかわからずさっと目を逸らした。
「さぁ、中へ」
彼は私の耳元にそっと唇を近づけて「お茶、お願いね」と囁いた。また、全身がぞわぞわする。
どうやら私は、もう雇われたらしい。
彼は顎で奥の方をさした。そこにキッチンがあるのだろう。
私は何も言わずに黙ってその方向へ歩いた。
どこに何が置いてあるのかさえさっぱりわからない他人のキッチンに立ち、湯を沸かす。
「何やってるんだろう、私」
自分で自分に突っ込みを入れた。
食器棚の下の戸を開けてお茶の葉を探したが、見当たらない。
ひとり暮らしは半年前に始めたばかりで、家事掃除はあまり得意ではない。自分の健康を考えると自炊した方がいいのだろうけれど、ひとりだとほんの少し欲しいだけの食材をたくさん買わなければならないし、何しろ最近の物価高の影響は大きい。寒い冬はなるべく安い白菜やもやしを使った鍋ばかりだ。肉や魚は高級品だった。
いろんな戸棚を開けてみたがお茶が見当たらず、インスタントコーヒーを見つけてそれにした。
古い食器がびっしり棚に収納されている。埃がついているので、あまり使っていなさそうだ。
私は仕方なくコーヒーカップを一度洗い、それからコーヒーを注ぎ入れた。もくもくと白い湯気が立ち込める。温かそうだ。自分用にも、小さなマグカップを拝借して注ぐ。カップを握りしめると、その温かさに思わずほっとしてしまう。
コーヒーを持って先ほどの居間へ行くと、眼鏡の彼はぎこちない様子で座っていた。無理もない。私だってここはなんだか落ち着かない。
「どうぞ、コーヒーです」
私が淹れたコーヒーなのに、彼がそう言って手渡した。
「砂糖とミルクは?」
私の方を向いて彼が訊ねる。持って来い、という意味か。
仕方なくもう一度キッチンに戻り、角砂糖が入った瓶から小さな皿に砂糖を出し、冷蔵庫から牛乳を取り出す。賞味期限は大丈夫だろうな、と一応日付を確認し、小さなカップに入れて再び持って行った。
「ありがとうございます」
眼鏡の彼は消え入りそうな声でお礼を言うと、コーヒーに砂糖もミルクも入れずにブラックのまま飲んだ。
「濱崎徹と言います」
濱崎さんは、ぽつり、ぽつりと話し始めた。
「ここの話は、会社の同僚から聞いたんです。それで……」
「ここへ来るまでの経緯はいいよ。本題を聞かせて」
濱崎さんと目が合う。私の存在が気になるのだろう。
「彼女もここにいていいかな。助手なんで」
「そう……なんですね」
助手。まぁ、償いのために働くのなら助手と呼ばれても仕方ないのかもしれない。
「婚約者から、婚約を破棄してほしいと言われました」
――リン
濱崎さんが話し始めると、鈴の音がした。彼から聞こえるような気がする。しかし、濱崎さんは鈴の音を気にする様子はなく、そのまま話を進めた。
「三年間交際した相手でした。今年の夏にプロポーズして、彼女がエンゲージリングにと決めていた指輪を買いに行きました。今時古いかもしれませんが、親同士が組んだ縁談だったんです」
「親同士が決めたとしても、三年も交際していたんだから相性はよかったんだよね、きっと」
「はい。親の言いなりにはならないぞとお互い思っていて、交際したうちの半分は実際友達のような関係でした。でも次第にお互い本気になれて、順風満帆な日々でした。それなのに、最近なかなか連絡をくれなくなって、会えない日が続いて。ようやく会えたと思ったら、婚約を取り消したいと言われたんです」
酷い話ではある。でも、私としてはそう簡単に婚約破棄を申し出るか疑問だった。何かのっぴきならない事情ができたのではないだろうか。だって、ただの約束とは違う。婚約したんだから。しかも、彼女が自分自身で指輪を選んでいるのなら、やっぱりおかしい。何かあったのではないだろうか。
「理由は?」
「問い正していったら、浮気していたんです」
前言撤回。最低な女だ。濱崎さんに同情したかったが、口を挟んでよいものかわからず、ただ黙っていた。
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