椿の下には(11)

 彼は本当に、ここに住んでいるのだろうか。私は改めて疑問に思った。こう言っては失礼だろうけれど、辺り一帯の家と比べたらおんぼろ小屋だ。

 玄関の前に立ち、ゆっくり深く息を吸い込む。母方の田舎に住む祖父母の家の匂いがした。

 表札はないが、小さな看板のようなものが戸の横に立てかけられていた。


「物語り屋……?」


 なんだろう。何かの店なんだろうか。でも、営業している雰囲気は全くない。

 チャイムもなさそうなので、戸を二回叩く。叩くと戸がぐらぐら揺れる。壊してしまいそうですぐに手を止めた。


「あの、すみません」


 横に引く玄関戸なんて、最近は滅多に見かけない。祖父母の家の戸以外見た記憶がなかった。戸にすりガラスがはめ込まれているのも同じだ。

 戸に手をかけてみると鍵はかかっていない。そっと、少しだけ開けてもう一度「すみません」と声をかけた。

 広くて殺風景な玄関に、いきなり二階へと続く階段が見える。靴箱に椿の花が一本生けてあった。

 ぎし、ぎし、と床が軋む音がする。二階に誰かいる。


 ――リン


 鈴の音がした。彼だ。

 上から足音が降りて来る。階段から見えたのは、雪のように白いつま先だ。こんなにも寒いのに彼は素足で、黒い着物に黒い羽織を身に纏っていた。


「やっぱり、来てくれたんだ」


 彼は玄関先に転がっていた下駄を履いて、戸の前に佇む私に近寄った。ふわり、と甘い香りがする。彼は私の顔を自分の方へ向けるように、顎をぐいっと掴んだ。冷たい手だ。

 目が、合う。

 白く透けるような肌に、黒い髪。男性なのにくるりと長い睫毛。顔が近い。私は思わず仰け反った。


「あの、きのうは本当にすみませんでした。お詫びと言ってはあれなんですが、これ、美味しいって今話題の大福です」


 頭を下げ、私は震える手で彼に大福が入った袋を差し出した。


「まあ、とりあえず上がってよ」


 彼はどこか掴みどころのない笑顔を私に向け、袋を受け取ってくれた。

 たぶん、怒ってはいないはず。でも、私には本心からの笑顔ではなくうわべだけに見えた。


 靴を脱ぎ、はじに寄せて整え、彼の後ろを追った。

 いい香りがする。花の香りだろうか。甘い蜜のようだ。


 彼は居間に案内してくれた。和室ではなく洋室だった。部屋に入ってすぐ、横長のテーブルがある。四人掛けのテーブルに見えるが、椅子はなぜか二脚だけだった。白いテーブルクロスが敷かれていて、赤い花の模様が刺繍されていた。テーブルの片隅に煙草盆が置かれている。木製の煙草や灰皿がひとつになった取っ手付きの盆だ。昔、祖父とよく観ていた時代劇を思い出す。盆には煙草ではなく煙管が乗っている。ここは本当に時代に取り残されているようだ。

 家の中なのに、少しも温かくない。息を吐けば外と同じように白く浮かび上がる。

 レースのカーテンが開けられた窓からは、あの椿の木が見えた。雪がまだうっすらと積もっており、最初に夢で見たときと同じだった。

 彼はひとつの椅子にどんと腰をかけ、向かいの席に私を手招きする。


「佐々木百花さん」


 私の名前を彼が口にした瞬間、ミミズが全身を這うようにゾクゾクした。

 彼は、女性の私から見ても一言では言い表せないほどに美しかった。幻ではないかと疑いたくなるほど、美しくどこか妖しい。それだけでなくどこか儚げにも見える。孤独、というのか彼には寂し気な雰囲気もあった。しかし、ひとたび口を開けば、凛とした強さを感じる。ピンと一本の筋が通っているような、はっきりとした声と言葉だ。


「はい」


 私は一度唾を飲み込み、乾いた喉を潤してから答えた。


「お詫びしたいって言ったよね?」


 もう一度、私は「はい」と答えた。


「それなら、ここで働いてもらおっかな」

「え?」


 うわべだけの笑顔を私はじっと見つめた。


「仕事、なくなっちゃったでしょ」

「そ、それは、あなたも同じじゃ……」


 すると、彼は妖しく微笑んだ。


「僕はあの会社の従業員じゃないよ。依頼があってね」

「……依頼?」


 派遣とか、期限付きの社員だったという意味だろうか。でも、うちの会社はバイトも派遣もいない。全員正社員だったはずだ。


「せっかくのご縁だし」

「いやでも……」


 一体、なんの仕事をしているのだろうか。フリーのカメラマン? いや、そんな感じはしない。少なくとも、今の彼の姿からカメラマンという雰囲気は全くしなかった。どちらかと言えば、モデルの方だ。


「だってほら、赤い糸で繋がっちゃってるよ」

「え?」


 彼は言葉の通り赤い糸を持ってにたりと笑っている。赤い糸は彼の小指に結び付き、長く長く伸びていた。その先は、私の右手の小指だ。


「い、いつこんなものを?」


 全然気が付かなかった。でも間違いなく、しっかりと小指に赤い糸が結びついていた。


「それに、これはお誘いじゃないよ。決定事項」


 口調は穏やかなのに、私に一切反論する隙を与えなかった。彼の言葉には、何か特別な力があるのではないかと疑うほど強かった。


「……一体、どんな仕事なんですか?」

「それはね、」


 彼が一瞬口を閉じ優雅に瞬きをすると、玄関から「すみません」と誰かの声がした。女の人の声だ。


「さっそく、お客さんだよ」


 彼は立ち上がると、玄関へ向かった。私もその後に続く。

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