椿の下には(10)

 冷水で顔を洗い、濡れた自分の顔を鏡に映しながら何度も「大丈夫」と言い聞かせた。


 冷蔵庫の中はきのうから変わらず空っぽなので、とりあえず着替えてから簡単に化粧をし、わずかな所持金を持って家を出た。

 外食をするようなお金はない。コンビニは高いので、歩いてちょっと遠いが会社の方にある安いスーパーまで行こう。なにせ、時間だけは無限にある。残念ながら電車の定期券はきのうで切れた。歩く定めにあるらしい。


 雪が溶けて滑りやすくなった道を慎重に歩きながら、きのう、きょうと見続けた例の夢について考えた。

 あの光は、一体なんだったのだろう。蛍、ではない。だいたい冬に蛍なんておかしいし、蛍よりも大きな光の玉だった。


 人魂、だったりしてね。


 くだらない想像をして少し笑った。そういえば彼の名前はなんだったか。思い出せない。

 ちょうどいい、同僚の橋本さんに連絡してみよう。

 寒さでかじかんだ指は、なかなか思うように動かない。いつもより慣れない手つきで、橋本さんの携帯に電話をかけた。


「佐々木さん、聞いた? 社長のこと!」


 電話に出た第一声がそれだった。


「うん、聞い――」

「馬鹿よ! 何考えてんのよ!」


 すごい剣幕で、私の声はかき消された。そうなるのが普通なのだ。今の私たちは、怒って当然だ。


「佐々木さんは、何してるの?」

「ちょっと買い物に」

「のんきね」


 確かにのんきだ。もっと危機感を持つべきなのだろうけれど、今は焦ったところでどうにもならない。お金はないし、社長は捕まったし、会社は潰れるのだ。どれだけ怒り狂っても元には戻らないし、事実は消せない。


「社長には、償ってもらわないと」


 償う。


 それで思い出した。橋本さんに電話したのは、愚痴を聞くためではない。


「橋本さんに、聞きたいことがあって」

「何?」

「少し前に、中途採用で入ってきたカメラマンの男の人がいたでしょ。何て名前だったっけ?」

「え?」


 橋本さんは、電話の向こう側でうーんと大きく唸っていた。


「そんな人、いたっけ?」


 ――リン


 また、鈴の音が聞こえた。びっくりして周りを見渡す。しかし彼の姿はない。


「いたじゃん。ほら、めっちゃカッコいい人が来たって女子社員全員ざわついてさ、」

「いたかなぁ」


 とぼけているのではない。本当に、忘れているのだ。


 ――もし、僕のことをあしたも覚えていたら、ね?


 きのうの彼の言葉が頭の中に響いた。

 でも私は忘れていない。彼がうちの会社にいた事実は、覚えている。彼の家の庭に無断で侵入して、壺を掘り出して、彼を怒らせた。笑っていたけれど、ものすごく怒っていた。全部しっかり覚えている。


「ありがとう。私の勘違いだったかも」


 今は他に考えることがいくらでもあるでしょ、と橋本さんに怒られて電話を切った。会社が倒産する、職がなくなるというのに、私の頭の中は彼の姿でいっぱいになっていた。

 なぜこんなにも気になるのだろう。顔がいいから、と言って片付けられない何かがあるような気がする。


「ここの和菓子、美味しいのよね」

「最近人気のフルーツ大福でしょ?」

「買っていこう。私、イチゴがいいな」


 温かそうなコートにマフラーを首に巻いた女の子たちが数人、大福屋にぞろぞろと入って行く。

 そういえば、先輩がここのお店の特集を組んでいた。ここが第一店舗目だけれど、この春に三店舗まで拡大が決まったとか。

 償ってもらわないと、と言った橋本さんの声が今度は聞こえる。

 買っていこう。彼に渡して、もう一度きちんと謝りに行こう。

 私は女の子たちの後ろに並んで、大福屋に入った。そして一番人気だというイチゴ大福とみかん大福を買い、店を出た。

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