椿の下には(04)
布団から身体を引き剥すように起き上がると、身体が重怠く頭がぼんやりする。ごしごしと強く顔をこすり、両頬を軽く叩く。
部屋の中は驚くほどに寒くて、裸足で踏む床は氷のように冷たい。
カーテンを開けて外を見る。どんよりとした雲が分厚く覆いかぶさっている。光はどこにもない。
冷蔵庫の中は空っぽ。見事に何もない。エイジと謎の女を見かけてからも、私の極貧生活は続いていた。仕方なく水道水をたらふく飲んで、スーツに着替えた。悲しいかな、失恋しても腹は減るらしい。
きょうもいつもの朝。何一つ変わらない。変わるのはテレビの中のニュースくらいだ。それも、一筋の光さえ届かないような暗いニュースばかり。ニュースを見ながら五分もかからない簡単な化粧をし、鏡の中の自分に向かってため息をつく。ファンデーションがもうなくなる。さすがにファンデーションは、プチプラなものでもいいから買っておかなければならない。女って、こういうところにもお金がかかるから面倒だ。
いつもの黒いコートを羽織って、首元にはしっかりマフラーを巻く。仕事用の鞄を手に持つ。日頃から大した仕事もしていないのに、鞄だけは異様に重たい。
玄関口に飾ってある一枚の絵。私は毎日この絵を見てから家を出る。海の中から水面を見上げている絵だ。海の深いブルー。水面から射す光の輝き。ゆったり泳ぐ海亀の頭と鰭が映っている。まるで、海の中から海亀を撮影したような一枚だ。水彩画でなく油絵なのに、透明感が溢れている。彼は、やっぱり天才だ。
絵の前に無造作に置いた家の鍵を握り、ドアを開けた。
息を吸い込み、吐く。息が白い。くっきりと見えた。
ドアを閉めて鍵をかける。ポケットに鍵を入れようとした瞬間、手のひらから滑り落ち地面に落ちた。付けていたキーホルダーの鈴の音がする。
私は地面に落ちた鍵を睨みつけた。でもすぐにため息をついて、しゃがんで拾う。
ほんの些細な出来事も、人生を左右するほどの大きな出来事も、全部必然だと考えれば楽だ。ホストに恋した私も、埋蔵金を掘り当てる夢を見た私も、今こうやって鍵を落とした私も、必然。どう頑張ったって、回避できなかった現実なのだ。運命は決まっている。自分でどうこうできない。
満員電車に揺られながら、ぼんやり周囲を眺めた。自分と同じように疲れた表情の人たち。毎日何も変わらない、ただ無限ループの日常に飽き飽きしつつも、きょうもまた会社へと向かう。
私が務めているのは、地域情報誌を作っている小さな会社だ。編集という名前に惹かれて入社したのだが、実際はほぼ営業の仕事だった。情報誌に掲載してもらえる会社やお店を新規開拓したり、飛び込み営業をしたりする。編集の仕事なんて、ほんのちょっとしかない。
先月、私の契約件数は少なかった。減給されたりはしないが、社内の、特に上司の酒井さんの目は厳しい。毎月掲載してくれているお得意先に、ことごとく断られてしまっていた。今月は挽回しなければ。きょうは新規開拓に出かけるしかない。
会社の前に着くと人だかりができていた。パトカーが二台止まっている。何事だろう。事故だろうか。それとも、事件か。
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