第8話 男子決勝戦で見たドラマ

さて、ここから5人のドラマが展開します。

① 道場関係者は、プロとしての経験と判断から、少しも疑義を質すことなく、この選手に対し棄権を勧告(忠告・助言)します。


② 選手は、自分自身の闘争心からか、若しくは大学日本拳法の老舗・関西大学の看板というプライドからか、苦痛に耐えながらも「やる」という意思表示をします。


③ 主審はそんな選手の意向を尊重するとはいえ、明らかに試合続行は不可能という観点から、


○ 一度は、「無理か?(棄権しなさい)」というように、選手に尋ねます。 しかし選手は、ちょっと待ってくれという仕草で、痛みを堪(こら)えながら、数十秒間、内なる回復を試みているようです。ケンカでボコボコに殴られても、倒れたフリをしている間に痛みが薄れ(痛みに慣れて)、意識と気力が戻ってくるということはあります。


○ そんな選手を見る主審の立場というのは、選手や監督以上に辛いものがあるに違いない。 試合場で主審とは全権・万能の神です。彼の判断に誰も疑義を差し挟むことはできない。 しかし、その故に彼には大きな責任がある。道場主というプロが、数十メートル離れた所から見てさえ「無理」であることが明白なのに、それを敢えて許容し試合を続行させ、その結果、選手が○タワ(身体障害者)にでもなったら、社会的な批判を浴びる(こともあり得る)。「なんで主審の判断で、強制的に試合を止めさせなかったのか。」と追求されても、立場上仕方がない。 そういう重責を担う主審の立場としての煩悶があったでしょう。


○ しかし、御自身もかつて現役としてこういう大会で戦った経験から、(勝敗抜きで)なんとか残り数十秒の試合を完結させてあげたい、という「元選手としての思いやり」もあったはずです。


○ 主審として選手に棄権を宣告すべきではあるが、できるなら、やらせてあげたい、という正負・真逆の狭間で、まさに進退これ谷(きわ)まる境地。 この時の主審の表情に私は、かのハムレットが呻吟した「生きるべきか死ぬべきか」と、全く同じ心を見たのです。或いは、厳寒のロシアで「戦いを続けるべきか撤退すべきか」悩んだ、ナポレオンの心境でもあったか。 なにしろ、5人の登場人物中、彼一人が裁決できる立場なのですから。


○ 結局、主審は(関大の)監督に判断を委ねました。 「カエサルのものはカエサルの元へ」と、イエス・キリストが述べた如く。また、ナポレオンが究極の判断をトランプで進退を占った(神に審問した)ように。


④ 監督としては、選手以上に「大学日本拳法の開基・関西大学」のプライドがある。かといって、一個人に玉砕(再起不能になるまでのケガ)までさせたくない。


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20年前に横浜武道館で観戦した神奈川県柔道大会。 山手学院高校の監督は、柔道強豪校(東海大付属)選手との、投げの打ち合いで踏ん張る自校の大将に叫びました。「○○、無理をするな、無理をするんじゃない(負けてもいいから、素直に投げられろ)。」と。 楽しむ為に柔道をやる、というのが彼ら高校のガイドライン(基本方針・指導要領)なのでしょう。 大学生(18歳~22歳頃)というのは、最も体力が充実する時期なので、高校生以上に無理が利くものですが、怪我となると、逆に高校生よりも回復が遅い? なんてことを、一瞬、私は考えていました。


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ここで大切なことは、以上4人は、みな社会的な責任とか法的な瑕疵について悩んでいたのではない、ということ。あくまでも、選手の身体と心を慮り苦慮されていたということです。

これがアメリカなら、話は簡単。監督や大学は(選手の親から)10億円単位の損害賠償を請求される社会ですから、ずっと簡単に判断・決断が為されていたでしょう。


しかし、ここが日本社会というか浪花節の世界。気は心、相手の立場や意向(気持ち)を斟酌し、皆が心で納得するような合意に持っていこうという風情で、私はここに「在来種日本人の世界」を強く感じました。 台湾の原住民の相撲大会でも、同じような感覚で運営されている、と感じました。


道場主?という、ある意味で外部の人間は、即座に「中止・棄権」を宣言できた。しかし、試合場という渦中にいる人たちは、選手自身に判断させることにしたようです。やはり「カエサルのものはカエサルの元へ」と。


結局、選手・監督・主審の総意とは「試合継続」となったのですが、その時、観客席からは大きな拍手と歓声が上がりました(これぞ大阪人の土性骨。真田幸村の気骨です)。

民主主義に於いては最大の神である民衆・観衆が、これを是としたのです。(山手学院監督と同じ目線であろう道場主さんとしては、御不満であったかもしれません。)


⑤ 明治の大将

さてここで、能で言えば本来のシテ(主役)でありながら、上記4人の物語に隠れてワキ(脇役)的な存在となっていた明治の大将が舞台に登場します。


○ 彼は、試合場での今までの成り行きを、ただ眺めているばかりでしたが、対戦相手が戦意を表明すると、観客と同じように(グローブをはめた手で)拍手をします。「敵ながらあっぱれ」という心の表明です。 さすがは明治の大将、試合の勝ち負けなど関係なしに、勇者を褒め称えるその心は武士(もののふ)の本領(特質)です。その(明治の)姿に観客の拍手は一層大きくなったようでした。


さて、相手のケガ以降、すっかり脇役でいた明治ですが、ここで明治らしい本領を発揮し、(勝者として)主役に復帰します。 試合が再開され、片足を引きずるようにして前へ出てきた関大の大将を、刹那に、明治らしい直面突きで仕留めます。(この「面突き」が、昨年の大会、対関西学院大戦では大将以外ゼロでした。)

まるで自害するかのようにして向かってくる敵に対する「武士の情け」。苦しまぬように、一瞬にしてその首を切り落とします。これが介錯というもの。


映画「三銃士」の場合とは事情が異なりますが、明治の大将が迷わず「殺した」のは、武士としての、謂わば日本的な愛と言えるのではないでしょうか。


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  1980年(昭和55年)の関東リーグ戦、最後の試合、私自身が大将戦に出場し、やはり、相手選手が怪我をしていたというシチュエーションを思い出しました(「思い出は一瞬のうちに」最終章「コンマ一秒の友情」)。

(もののふ) あの時も、大将戦の前に、既にチームとしての勝敗はついていたのですが、私の対戦相手は(前の他校との試合で受けた?)怪我を隠し、痛みに耐えながら、3分間(当時は3分間本数勝負)を懸命に戦い抜いた、立派な武士でした。


私の場合、試合開始早々、相手がかなり重篤な怪我(左足の膝)であることがわかったので、なんとか面突き一本先取のままで終わりたかったのですが、たまたま、彼の胴が空いた瞬間、条件反射的に胴突きが決まりました。 相手の選手は全日本に出場するくらいの強者で、とても私がまともに戦って勝てる相手ではありませんでした。


あの時の対戦相手であった早稲田の大将と、今回の関西大学の大将の姿がオーバーラップし、私は2倍感動して目頭が熱くなりました。 そんなことは、高校時代に観た名作日本映画「父ちゃんのポーが聞こえる」1971年(昭和46年)以来のことでした。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%88%B6%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%81%AE%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%81%8C%E8%81%9E%E3%81%88%E3%82%8B


歴代の全日本学生拳法選手権大会で、こういう感動場面というのはなかなか遭遇できない、と考えれば、まこと今年の私は果報者。「最後の試合・大将戦・怪我」という状況が40年前と現在が一致したというのは、まさに天の配剤かもしれません(怪我された方にはお気の毒ですが)


しかし、「旅行好き 行ってないのは冥土だけ」という私の場合、「冥土へのみやげ話」として神様が授けてくれたのか? なんて、つい考えてしまうのは、やはりヤキが回ったということなのか。


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