第3話 天井桟敷で知る「コギト・エルゴ・スム」

コギト・エルゴ・スム(我思う故に我あり)というデカルトの言葉とは、私流に解釈すれば、「自我の確立が出来た人」の事です。

デカルト((1596~1650))の哲学的思考をインスパイア(鼓舞)し成長させ、この言葉を彼に与えたのは、ルイ13世(フランス王(1601~1643)。1610年即位。リシュリューを登用。ブルボン朝の絶対王政の基礎を確立した)の時代に活躍した「三銃士」のような、フランス剣士たちでした。

(「三銃士」とは、デュマの剣豪小説。1844年刊)


フランスのこの時代(1601~1643)とは、日本では宮本武蔵が活躍した16世紀の戦国時代にほぼ相当します。また、平安中期の武将で河内源氏の祖と呼ばれる、源頼信(968~1048)のような平安武士も、類い希なる「コギト・エルゴ・スム」の完成者でした。

つまり、フランスでも日本でも、剣士・剣豪・武士という、個人の力量・技量で戦う(殺し合いをする)強者(つわもの)たちが活躍した時代とは、強烈な自我と自我とのぶつかり合いの中で、彼らの精神もまた鍛えられ、その精神を見ることのできたデカルトによって「コギト・エルゴ・スム」と「命名」された。

  平家物語のように、集団で戦う時でも「やあやあ我こそは・・・」と、個人の名乗りを上げて一騎打ちで戦うというスタイルが主流であったからこそ、自分の肉体をコントロールする「我」はより重要であったのです。


強者とは、体力に勝り・剣技に優れた人間である以上に、極めて強い自我・明確な我(われ)の観念を持つ、精神的にしっかりとした人間のことです。

フランスのナポレオン(1769~1821)から始まり現在に至る、大量の(プロの剣士や武士ではないアマチュアの戦闘員)や、鉄砲・大砲を使って敵を殲滅するという、大量殺戮によって勝敗を求めるというスタイルは、せっかく人間が人間らしくなる大きなきっかけである「我の自覚」を逆に薄めていきます。

  更に、現代ではボタン一つでミサイルや大量の爆弾を投下し、無人攻撃機や衛星からの攻撃という「完全に自我のない」というか、自我なんてあったら大量殺戮を目的とした戦争にならない、という世界になってしまいました。


その意味で、現代は17世紀よりもずっと、個人の自我(意識)が希薄になり、政府やマスコミの煽動に乗せられた夢遊病者・ロボット化しているのが、現代の人間と社会ではないでしょうか。


そんな「自我の希薄化・喪失」という危機意識を持つ私に、これも運命というべきか、今大会における女子三位決定戦と優勝決定戦に於いて、隣りに立つ一人の女性(拳士・OG?)から「大学日本拳法によって完成された強力な自我、コギト・エルゴ・スム」を見せてもらえたのです。

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