第5話_情緒不安定
ジムで寝泊まりする生活が始まった。
お客さんは一向に現れない。
他の従業員も見かけたことはなく、いつも室内はガランとしていた。
一体ここは、なんなんだろう。
俺は、いずれやってくるかもしれない「客」のために、筋トレマシーンでひととおりトレーニングをしておいた。
マシーンの使い方を質問されたとき困らないようにするためだった。
筋トレはやってみると意外に面白くて奥が深かった。
汗をかくとスッキリした気分になれた。
ネットの動画などを参考にし、筋肉の鍛え方について学んだりもした。
筋トレが俺の習慣になっていった。
しかし、いくら自分の体を鍛えても、お客さんは一向に現れなかった。
じっさいの仕事がないんじゃ、時給も発生しないじゃないか。
.......タダで住む場所を提供してもらえただけでも、じゅうぶんありがたいんだけど。
***************
蛭間さんはどこかへ出かけていて、ほとんどジムにはいなかった。
ときどきふいに現れて、俺がいれば雑談を交わした。
珈琲や食べ物を差し入れてくれることも多かった。
「光一。ここに彼女を連れ込んだらだめよ」
蛭間さんとソファに隣り合って座っていた。
「彼女はいません。つくる気もないです」
カフェや居酒屋のバイトで「付き合ってほしい」と何人かに言われたけど断っていた。
「ふうん。どうして」
彼女は俺の太ももに手をおいて、トントン、トンと、ちょっとずつ指を動かし始めた。
「自分が生活するのに精一杯だから」
「そうなのね。かわいそうに」
蛭間さんは俺の足の付根のほうまで手を伸ばした。
「アハハ。くすぐったいです」
俺はそっと蛭間さんの手をどかした。
**************
ある日、蛭間さんに聞いてみた。
「仕事は一体、いつから始まるんですか?」
「時が来たらね」
蛭間さんは、そう言いながら、俺の腕をサワサワとさすりはじめた。
「くすぐったいですよ?」
俺は蛭間さんの手を、そっと自分の腕から離すと距離を取った。
俺はだんだんに、彼女からのスキンシップに慣れてきて、違和感も何も感じなくなってきた。
麻痺してきたのだ。
*********************
またある夜、シャワールームの掃除をしていた。
週に一度ほど、業者がフロアの掃除はしてくれるけど、自分の部屋とシャワールームの掃除は、3日に一度くらいはするようにしていた。
汚くして、蛭間さんに追い出されたら困るからだ。
「掃除してるの?そんなの業者がやるのに」
ふいに蛭間さんの声がしてびっくりして振り返った。
「こんな遅くに、電気が付いてるからのぞきにきたの」
蛭間さんからはアルコールの匂いがふわっと漂っていた。
「あれっ、筋肉ついてきた。筋トレしてるの?」
蛭間さんは俺の二の腕に触れながら言った。
「はい。お客さんが来たときのために」
俺がそう言うと、蛭間さんはアハハと笑った。
「なんで笑うんですか?......うわっ」
蛭間さんがとつぜん、俺にもたれかかってきた。
酔っ払っている。
「光一から......石鹸の匂いがする」
「今、シャワー浴びたばかりだから」
蛭間さんは俺の腰に手を回して胸のあたりに顔を擦り付けてきた。
「くすぐったいですよ」
俺は蛭間さんの両肩に手をかけて彼女を引き離す。
「うそよ......。ほんとうはくすぐったくなんか、ないんでしょう」
蛭間さんは俺を見上げるとそう言った。
「くすぐったくない......気持ち良いです」
俺は彼女の目を見つめた。
俺は彼女の頬に触れると唇にキスをした。
「......んっ......」
彼女の声。
「だめ!」
蛭間さんは急に、我に返ったかのように俺を突き飛ばした。
なんだ。
誘ってきたくせに。
俺が怪訝な顔で蛭間さんをみつめると、彼女は泣いていた。
「あなたに抱かれたら、あたしはあたしじゃなくなる。
お願いだから誘惑しないで」
「誘惑してきたのは蛭間さんのほうじゃ......」
彼女はシクシクと泣いている。
「酔っているんですね。
ごめんなさい。俺が悪かったです」
俺は両手を上げて蛭間さんに謝罪した。
「1か月ほど、東京を離れなければならないの」
蛭間さんは涙を拭きながら言った。
「緊急時用にスマホの番号を渡しとく。
なるべく早く光一のところへ、帰れるようにするけど」
彼女は甘えたような声でそう言った。
蛭間さんは情緒不安定なのかな。
そう思った。
俺は、日銭を稼ぐためにカフェと居酒屋のバイトを続けた。
そして寝る前の筋トレも黙々と続けた。
そんな感じで忙しいけど平穏な毎日が続いていた。
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