教えてあげようか
契約は絶対のこの国で、契約について忘れる人間などいるはずが……。
聞いてくれ、皆。ここにいた!ここにいたんだ!
この国の絶滅危惧種として保護しようか。
「ねぇ、あなた?あなた?聞いているの、あなた?」
「……家族だと……いや、しかし……」
土下座も一瞬。
自ら顔を上げたものの、まだ床に座っている男は、ぶつぶつと小声で呟き続けていた。
その肩を揺らす妻は大分困惑している様子だ。
何のために土下座したのかと、こちらも困惑しているがな。
「しかし私の後妻で……私の娘で……私の家族で……」
「どういうことですの?」
男から聞き出すことを諦めた妻は、単刀直入にルーカスへと問い掛けた。
そうだな、ルーカスに聞けばすぐに答えが分かるだろう。
その怖いもの知らずな様だけは見事だと称賛するよ。よく聞けたな?
「貴族は平民とは結婚出来ないのだよ」
「嘘よ!だってわたくしは」
「あぁ、婚外子なんてそもそも契約違反だからね。例外にもならない」
この国の貴族であること。
それもまた国と個人が契約を交わしたうえで成り立っている。
この国において貴族のルールが絶対となるのも、国と交わした契約書があるからこそ。
高貴な血統を守るためにと、貴族が平民と交わることは許されていないのである。
「こんがいし?何よそれ?分かるように言ってちょうだい」
まさしくあの娘の母親だった。
長く貴族夫人のつもりでいたのなら、少しは学んでおいたら良かったものを。
まぁ学んでいたら、そもそも自分が貴族夫人だなんて思い違いも起こらない。
「転がるそれのことだよ。父親が誰であろうと、それがこの男の娘になることは絶対にない。ねぇ、そうだね、君?」
ルーカスに声を掛けられても、男は返事をしなかった。
ぶつぶつと繰り返していた言葉もいつの間にか止まっている。
もう灰になっていないか?生きているか?おーい。
「ねぇ、覚えているかな?私はあのときも言ったんだよ。懐かしいねぇ」
遠い目をしてしみじみと言ったルーカスは男に微笑み掛けているが。
男にはルーカスと共有するような楽しい思い出などあるわけがない。
「王都から逃げた理由も、確か最初はそれだったように思うけれど。いつの間にか私への嫌がらせに変わっていたね?どうして君はそんなに忘れっぽいのかなぁ?」
「に、逃げたわけではなく……」
おぉ、生きていたか。
「逃げるにしても、シャーロットを連れて行くことはなかったね?」
「あの子は私の娘なのですから、別に何の問題も……」
「問題大ありだよ。君の娘である前に、シャーロットは侯爵家の令嬢なのだよ?」
「それがなんです?侯爵である私の娘であることには違いないでしょう?」
凄いよな。まだ忘れているぞ。
しかし顔色は悪いままだが、少しは復活したのか?
何やらまだ語ろうとしているが……あぁ、良くない方向に考え始めちゃったんだな。
シャーロットの名前を使って、この場を切り抜けようと考えている顔だ。
「それにあの子も!シャーロットも、私といたいと望んでおりましたし!」
今までと状況が異なることを男は理解していなかった。
もはや二人が結婚した今、父親面も悪手だ。
ほら、自分で昨日言っていただろう?
父親にも会わせたくないとかなんとか。あれだよあれ。
「君はそっちの契約さえ覚えていられなかったんだねぇ。未確認生物の集団だったんだ?」
「そっちの契約?」
「君は婿だったね?契約は?」
「はっ!」
本当に忘れていたんだ?と驚きのままに漏らしたルーカス。
そうなのだ。
この国に生まれたら契約は絶対を理解している前提で、ものを考える。
貴族は特にそれが顕著だ。
だからまさか、こやつがすべてを忘れて振舞っているとは。
ルーカスだけでなく、当時の誰もが思ってはいないことだった。
幼いルーカスはそこから対応を少しばかり誤ってしまう。
後妻としてこの女とその娘を家に連れて来た時点で、自由になりたいと願ってのことかと捉えたルーカス。
そういうことならさっさとシャーロットを渡して貰おうかと乗り込んで行ったあの日。
何故か男はシャーロットを引き渡そうとはしなかった。
それでルーカスも大暴れだ。
だがまだ男は貴族でシャーロットの父親だった。
契約違反を咎められるまで、強く出ることも出来ず。
そこでルーカスは新しい契約を交わすことにして、結婚が確実になった喜びと共に、シャーロットと会えた幸せを噛み締めて、一度は引いたのである。
その後は勝手に自由になった男が、シャーロットから離れるだろう、と。
まだルーカスは、この時点でこの国の常識に沿ってものを考えていた。
男は公爵家に抗議したあと、急いで新しい妻子と共に、シャーロットを連れて領地に向かった。
契約違反をしておきながら、それについて釈明するため王城を訪れることなく……。
でもまぁ結婚の契約があるしと、まだ楽に構えていられたルーカス。
それに貴族だ。すぐにシャーロットだけは王都に戻ってくるはずだった。
ルーカスはまだこの国の常識を手放さずに考えてしまったのだ。
いやいやさすがに甘かったと思うぞ。
当時の男のすべての行動が、絶滅危惧種のそれだったであろうに。
案の定男は領地に籠ったまま出て来ないだけでなく、シャーロットを一人で王都へ送り出すこともしなかった。
契約とは関係ないが、貴族の嫡子は成人前から王都に頻繁に滞在し、社交の場に顔を出す。
次期当主として他家と縁を築いておくためで、それは貴族社会の常識だった。
もしも幼いシャーロットには一人では難しいというのなら、父親が付き添って行うべきだったのだが……。
色々あって社交の場になんか顔を出せない男だ。
そう考えると、よく娘が結婚するからと王都に戻って来れたよな。
こやつ、貴族が集まる結婚式にも当然のような顔をして、新婦の父として参列していたが。
忘れっぽいにもほどがあるぞ?
もう病気を疑った方がいいから調べてもらえ?
「いや、しかし。娘はすでに嫁いでしまいましたし。はっ?え?この場合はどういう……」
男は混乱していた。
本当に今さらだが。
今になって知ったとすれば、混乱するのも無理はない。
自分が婿で、当主代行の権利しか得られない身の上であることを思い出せば。
娘が嫁いだ後の自分の立場も見えなくなる。
契約上婿が当主になることは絶対にない。
それも当然。
そんなことを許可していたら、家の乗っ取りが容易くなってしまうだろう。
血統を重んじているからこそ、貴族は平民と結婚出来ないというのに。
他家の人間を婿にして、別の家の血統に乗っ取られる貴族があってはならない。
しかしここで男は分からなくなった。
その後継ぎの娘はすでに他家へと嫁いでいる。
自分のこともさることながら。
え?侯爵家はどうなっちゃうの?
男は困惑してまたしばらく黙り込んだ。
いや、本当に。
気付くのが遅過ぎるんだって。
少しは努力して男の思考を推測してみるか?
大分大変だけどな。
この男、領地に引き籠っていたのが仇となったのではなかろうか。
領地にいれば、当主の代理であろうと、当主と変わらぬように敬われる。
他にもっと偉い貴族もいないわけで、それで自分がずっと当主であるように勘違いしてしまったのではないか。
だが後妻として平民の女性を、それも子まで一緒に連れ帰ったことについては、ほとほと理解出来ない。
あれは何がしたかったのだろうか?
領地にいる者たちも、この件には大変困惑していた。
何か凄い意図があるのではないか?
おかし過ぎる行動故、皆が皆深読みし、この件には触れずにおいたのである。
それはな。理解不能な相手が自分たちの土地で当主代理なんかをしていたら。
何か思惑あって……と信じたくなる気持ちも分かるぞ。
こんな絶滅危惧種的な男が代理でも主君とは思いたくなかったよな。
あぁ、だがこの男。
頭の片隅に貴族としての常識をほんのりと残していたのか。
領地では、連れて来た妻子が実は貴族なんだと吹聴して回っていたんだったな。
これまた謎過ぎて、新興貴族として契約済みなのか?あるいはこれから貴族となる約束がある?何か国との重要な密約でも交わしているのかも?
とまぁこのように、またしても周りが勝手にその裏を慮ってくれたおかげで、男は領地でひっ捕らえられ国に差し出されるということを、何年も免れたのである。
もしかしたら特別に運がいい男なのかもしれない。
「あなた、どういうことなのよ?わたくしはあなたの妻でしょう?この子だって…………あなたの娘だから婿を取って侯爵家を継ぐのだと言っていたわね?」
今、転がる娘を見たあとに、見なかったことにしたよな?
とても母親とは思えないのだが……実は血が繋がっていなかったとか言わないでくれよ。
もうこっちは与えられた情報量が多過ぎて苦しいからな?
「へぇ。そこのが婿を取るつもりだったんだ?本当に分からなくて面白いね」
これにはルーカスに完全に同意だ。
婿を取る気だったとして、それも分からぬが。
どうしてそこの転がるそれは、この屋敷が自分の家になるようなことを言っていた?
母親もその気でいたな?
「わたくしは母親よ?だから娘のものはわたくしのもので当然でしょう?ねぇ、あなた?そうよね?」
おぅおぅ、娘のものはわたくしのもの。
わたくしのものはわたくしのもの。
そういうあれだな?
「き、聞かないでくれ。私にも分からない……」
凄いな。まだ分からないらしいぞ。
侯爵家の婿になれたんだから、この男は元から貴族の生まれのはず。
どうしたらその年齢まで分からないでいられたんだ……。
「仕方ないなぁ。教えてあげようか?」
ルーカスも飽き飽きしているように見える。
さっきまで珍獣たちに興味津々ではなかったか?
あぁ、そうだな。
早くシャーロットの元に戻りたくなったと。
すまんな、シャーロット。
相変わらず寝室から出て来ない新妻がまだ無事であることを遠くから祈っておく。
火中に飛び込む元気が、もう残されていなくてな。
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