惜春(075:ひとでなしの恋/2005.06.25)

 昔むかし、後ろの山には鬼が棲んでいた。

 かれは十年にいちどの春に里との境の社に現われ、約束どおりに人身御供の娘を喰らって山に帰る。山の麓、里との境界には桜の森が広がっており、毎年みごとな花をつけた。ことに社のかたわらに立つ千年を経た古木は、鬼の来る年にはひときわ美しく咲き誇る。

 伊知郎がはじめてその桜を見たのは、あれは、七太の姉の七重が鬼に喰われた年だった。


 伊知郎の育った里はよく肥えた豊かな土地だった。木には果実がたわわに実り、みずみずしい野菜がよくそだち、水は澄んで冷たく、稲穂も重たげに頭を垂れた。

 遠い遠い昔、この世に人が満ちるずっと以前より、この地のいっさいは鬼のものだった。地にあふれた人どもがすみかを奪いあって、止むことなく戦が繰り返された時代にも、鬼がおさめるこの地に火を放つ者はなかった。長い長いあいだ、この地に人が足を踏みいれることはなかった。戦に敗れて落ちのび、追い詰められた一族が、逃亡の果てにここに流れつくまでは。

 長く苦しい流浪に一族は疲れ果て、もうほかに行くあてもなかった。一族の長は勇気を奮って山の麓の桜の森のいちばん美しい樹の下で鬼に会い、懇願した。どうか住まわせてくれ。田を、畑をつくらせてくれ。娘とひきかえに鬼は願いを承知した。

 古老たちから繰り返し繰り返し一族の昔話を聞かされて育つ里の子どもたちは、一様に大人しく、黙りがちだった。ものごころつく頃にはその物語をそらで言えるほどに馴染んでいた伊知郎も、例外ではない。


 差し出される娘は十四、五歳前後の生娘からえらばれる。古老たちが集り、籤引きできめるということになっているが、本当のところは誰も知らない。

 落人がほそぼそと暮らすかくれ里のこと、もともと人の数は多くはない。運わるく十年ごとのその年にあたってしまった娘は、青ざめ、口数も少なくなり、身をちぢめてじっと春を待った。逃げ出したり、自死をはかったり、男と契ろうとしたりする者はいなかった。もし自分がまぬかれたとしても、いずれ身代わりになるのは同い年のあそび友達の誰かなのだと、どの娘も知っていた。

 いっちゃんやたかちゃんにあたらなくてほんとうによかった。おのれが贄になると知った七重は、血の気の引いた面でそう言って気丈に微笑んだ。七太と伊知郎が十になるかならないかで、七重は十五になったばかりだった。難を逃れた七重の幼なじみの娘たちも、七重と七太の父母も、家同士のつきあいの長い伊知郎の父母も、みな正体なく嘆き悲しんでいた。当の七重と弟の七太だけが、たんたんとしていた。

 母よりも姉を慕っていた七太は泣くことも怒ることもせず、まわりに何を言われてもじっと押し黙っていたが、伊知郎にだけ、ひとことぽつりと呟いた。

 ねえさんが喰われるところを見にゆく。

 社に娘をつれてゆくのは神官ひとりだけと定められており、ほかの者はその近くに寄ることさえも禁じられていた。もとより鬼が現われて娘を喰ういまわしい場所に近づこうというもの好きもいなかった。七太は伊知郎にともに来いとは言わなかったが、伊知郎が俺もゆく、と申し出たのを止めようともせず、ただ頷いた。


 弥生月のおわり、深更と黎明が入れかわる境の刻限に、布で顔を被った神官に手を牽かれて、白い単衣を着せられた七重はひっそり出立した。身を切るような冷たい外気にこごえながら、七太と伊知郎はおさない足で必死にあとをつけた。

 どれほど歩いたろうか、明けの明星を残して闇は薄らぎ、いつしかあたりは薄青い透明な空気で満ちた。道は桜の森にさしかかっていた。すでにぽつぽつ花をつけている木々を見上げて、伊知郎はおや、と思った。まだ季節が早く、里の桜のつぼみは固いのに、この森の桜はほころびはじめている。道を進めば進むほど、開花している木が多くなり、咲き方も派手になってゆく。七太は気付いているだろうか、と伊知郎が隣を見ると、七太の目は前をゆく七重の背にぴたりと据えられ、景色など眼中にない様子だった。

 社についたときには東の空は白々と明るんでいたが、まだ日は昇っていなかった。社を見下ろすように立つ桜の幹に、七重はくくりつけられた。くくりつけた七重と対峙して何言か呟き、幾度か礼をして神官は足早に去った。

 沈黙のなかに七重と、七太と、伊知郎が残された。大勢の大人たちが囁きあっているような気配を不審に思って伊知郎があたりを見渡すと、七重がくくられた桜の花が頭上でざわざわと揺れていた。滅多に人が訪れないために荒れ果て、今にも朽ちてしまいそうな社と対照的に、樹齢千年を誇る古木は美しく、森のどの木よりもみごとに花をつけていた。何かをこれほどに美しいと感じたのははじめてで、おのれがどういう経緯で、何のためにここに居るのかを忘れて、伊知郎は枝いっぱいに咲き乱れる花を見詰めた。

 静寂は何の前ぶれもなく破られた。山から鬼がおりてきたのだ。七重はじっと目を閉じ、がっくりと首を垂れて動かない。七太の目が張り裂けんばかりにみひらかれる。鬼は並外れて丈が高く、並外れて痩せており、赤い瞳をぎらぎらさせて、気が狂わんばかりに飢えていることがひとめで知れた。鬼は骨ばった手で七重をひと掴みにすると、荒々しく喰らいついた。

 青みがかった夜明けの清浄な光のなかで、鬼は一心不乱に七重を喰った。間断なくきこえるばりばり、むしゃむしゃという音の合間にも桜はざわめき、鳥たちがおだやかにさえずる声がときおりまじった。

 七太はまたたきひとつせずに姉が喰われるさまを凝視していた。目の前の光景と、七太の様子と、どちらもが尋常ではなかった。伊知郎はただただおそろしく思っていたが、ふいにあっと声をあげそうになった。

 桜の花が降りだしたのだ。かすかに吹いた風を合図に、古木は惜しげもなく花を散らせた。もはや血と肉と骨に還った七重と、それを夢中でむさぼる鬼をいつくしみ愛撫するように、たえまなく花びらは降りかかり、降り積もってゆく。


 そのあとのことは憶えていない。どうして家に帰り着いたものか、気がついたときには伊知郎は布団に寝かされていた。ひどい熱で、しばらくのあいだは床の上に起きあがることもこともできないほどだった。

 父も母も向かいの家のかの子も、伊知郎の枕許に心配げな顔つきで座ってはどこへ行っていたのか、何があったのかと伊知郎を質した。もちろん伊知郎は誰にも何も話さなかった。七太とさえ何も語り合わず、お互いなにごともなかったかのように振る舞った。


 それから十年が過ぎ、伊知郎も七太も青年になった。

 その春あたったのは伊知郎の幼なじみのかの子だった。伊知郎と同い年のかの子はかぞえで十七をむかえており、そんな年かさの娘が差し出されるのは異例のことだった。女が若死にしてしまうのか女の赤子が生まれにくいのか、里の女は少しずつ少しずつ減っており、その年は贄にふさわしい娘がどうにも他になく、苦肉の策でかの子が指名された。

 年頃になった伊知郎の嫁にかの子を迎えると正式に決まりかけていた矢先のことだった。ふたりがめおとになることは何年も前からみな暗黙の了解のように思っており、かの子は伊知郎を慕っていた。

 もう少しはやく祝言をあげていればよかった。目を真っ赤に腫らし、それでも笑おうとしながらかの子は伊知郎に言った。先に伊知郎さんに嫁いでしまっておれば、鬼のもとになぞ嫁かなくてもすんだだろうに。伊知郎さん、今からでもわたしを伊知郎さんのものにしてください。そう言って、かの子は伊知郎にすがって泣いた。伊知郎はどんな言葉をかけてやればいいのかもわからず、しゃくりあげるかの子の背をさすってやることしかできなかった。

 おまえが愚図愚図していたからだ、と七太も言った。かの子の気持ちを知らなかったわけでもあるまいに、おまえがいつまでも煮え切らないで、かの子を抱いてやらなかったから、こんなことになったんだ。かの子があんまり可哀相だ。珍しく強い調子で、七太は面とむかって伊知郎を詰った。

 伊知郎は黙っていた。憐れむ声にも、詰る声にも答えなかった。七太にだけひとこと、鬼を殺しにゆこうと思う、と告げた。

 許嫁が鬼に喰われるということを、伊知郎は周囲の人びとほど悲しむことができずにいた。かの子は嫌いではなかったし、いずれこの娘と添うのだろうとも思っていたが、いとしくてたまらないというのでもなかった。このたびの事態にあまりにも感情が動かないおのれに、伊知郎は戸惑っていた。鬼退治を思いたったいちばんの理由さえ、かの子の身を案じてのことではなく、それが後ろめたくてならなかった。


 七太は同行したいと言ったが伊知郎は頑なに拒み、よく研がれた短刀と護符だけを受けとってひとり、神官に牽かれてゆくかの子を追って社への道をたどった。例年にまして寒い年で、冬の厳しさがいっこうに和らぐ気配を見せず、里の桜は月が変わって卯の月に入らなければ到底咲くまいという風情だったが、道中さしかかる森の桜は十年前と同じく咲きはじめていた。

 里を出てから社に着くまでかの子はずっと泣き通しだった。桜の古木にくくりつけられ、神官が立ち去ってしまうとすすり泣きはいちだんと高くなった。身を捩じるようにして泣きつづけるかの子の声を振りきるように、伊知郎は上ばかり見ていた。千年の桜の花はあのときと変わらず美しかった。真下に立って見上げたならば、満開の花が紺青の空を覆いかくして視界を白く埋めつくしているにちがいないと思うと、樹にしっかりと縛られているかの子が羨ましいような気すらした。いつしか伊知郎は、懐にしのばせた刃のこともかの子のことも忘れて、ぼうっと花に見とれていた。

 かの子の悲鳴が明け方の澄んだ空気を裂き、伊知郎は我にかえった。そのときにはもう、鬼はとっくに現れていて、泣き叫ぶかの子に長い腕をのばしていた。ふとい幹から引き剥がされ、喰らいつかれるという瀬戸際に、かの子は伊知郎の名を呼んだ。いちろうさん、いちろうさんたすけてえ、と声をかぎりに叫んだ。

 その声に打たれて伊知郎はすくみ、動けなくなった。短刀のつかを懐中で握りしめたまま固まっている伊知郎の目の前で、鬼はあっさりかの子を喰った。見るまにかの子は血まみれの肉塊になり果てた。伊知郎はなす術もなく、呆然とそれを見物していた。

 伊知郎の金縛りがとけたのは、鬼をいつくしむように降りかかる花を見たときだった。花びらがいちまい、ひらりと鬼の青白いくびすじのあたりに舞って、ほんのりとうす紅い痕のように貼りついたのを見て、思い出したような激情が伊知郎を襲った。すでにかの子であったものはあらかた鬼の腹におさまったあとだったが、構わず伊知郎は飛び出した。草履の下で骨が砕ける音がしたのにも、興奮した伊知郎は気付かなかった。手指を舐めている鬼におどりかかり、渾身の力をこめて短刀を突き刺した。

 首に貼りついた花びらを狙ったつもりが手元がくるい、短刀は鬼の肩口に深く刺さった。途端、桜の花がいっせいに凄まじいいきおいで風に舞い、伊知郎の目の前は真っ白になった。


 伊知郎が意識を取りもどしたのは十日ほどもたってからだった。死んだと思いこんでいた伊知郎は家の布団で目を覚まして、何もかも夢だったのだろうかと疑った。

 しかし夢ではなかった。見舞いにおとずれた七太が言葉少なに語ったところによれば、伊知郎はあの日、社のかたわらの桜の幹にもたれかかるようにして倒れていたのだという。日が高くなっても戻らない伊知郎を気にかけて探しに出た七太が見つけ、かついで里まで連れ帰ったのだそうだ。どういうわけか伊知郎の口には喉の奥まで桜の花がいっぱいに詰まっており、窒息しかけていた。きれいに吐き出させて息を吹き返さすのに難儀した、と七太はたんたんと言った。


 昏睡からさめてからも高熱はなかなかひかず、里の桜が咲いてすっかり散るころにようやく伊知郎は床上げした。奇妙なことに、あくる年も桜が咲くころに原因不明の高熱が出て、やはり花期が終わるまで伊知郎は寝込んでいた。そのあくる年も、そのまたあくる年も、桜の季節になると伊知郎は床に臥すようになった。

 熱にうなされて朦朧としているあいだ、伊知郎は夢を見ていた。

 場面はきまって山と里の境の社だった。桜の樹の下に、白装束の人影があった。俯いているので顔はわからないが、すらりとして立ち姿がよい。縄でくくられてこそいなかったが、鬼を待つ娘の風情だった。

 やがてそこへ、並外れて丈高く、並外れて痩せた大男がやってきた。鬼によく似た姿をしていたが、眼に深く静かな光があり、どこか鬼とは呼べぬ様子をしていた。大男は桜の下の人影に手を伸ばしかけ、ふいに戸惑ったように動きを止めた。ぱっとあげられたその面は、肌理がこまかく女と見まごう端正なつくりではあるが、男のものだったのだ。大男はしばらく逡巡していたが、骨ばった手でぐいと細い手首をつかみ、口許にもっていこうとした。

「私を、喰うのか」

 手をつかまれたまま、男はからかうように言った。うす紅いくちびるをこころもち引き上げ、うすく笑んでいる。まだ齢わかい青年のなりをしているのに、千年を生きた仙人のような読めぬ顔をしていた。大男は地を這うような低い声で決然と言った。

「娘がいないのならおまえを喰う。そういう決めごとだ」

「私は構わないけれど、私を喰っても御前の腹は満ちるまい」

「ならば何故、娘でなくおまえがそこにいる」

「私はいつでもここにいる。ずっとずっと昔から。毎年ここで御前が来るのを待っている、が、去年御前は来なかったね。女も来なかった」

 男は切れ長の目をすうっと細めた。

「女はそこにいるよ」

 男が指さした先に、青白い顔の娘が白い単衣姿で横たわっていた。大男は無我夢中でほっそりした躰にのしかかり、喰った。瞬く間に娘はあとかたもなくなった。

「もう腹はいっぱいか」

「……ああ」

 しかし大男は言葉と裏腹に、むなしいようなかなしいようなどこか虚ろな表情を浮かべていた。男はあわれむように微笑した。

「まだ飢えているのだろう、荒ぶる神よ」

「おれのことを言っているのか」

「もう忘れてしまったのだな。人喰いの化け物とさげすまれるはるか昔、この地のすべてをおさめ、卑しい飢えなどとは無縁だった頃のことなど、忘れてしまったのだろう」

「……おまえは、だれだ」

 その問いに答えず、男はす、と指先を動かした。いつからそこにあったものか、男の指し示す先には、白い単衣姿の少女が倒れていた。大男は幾分怖じけたように男の指先を見た。

「……もう、喰った」

「あれは先刻のとはべつの女だ。喰え」

「だが」

「去年ひとりも喰わなかったのだから、今年ふたり喰っても構うまい。もう腹はいっぱいか? ならば無理にはすすめまいが、」

 男がみなまで言わないうちに大男は娘に躍りかかり、むしゃぶりついた。

 そこで目が覚めた。鬼に斬りつけた翌年の春のことだった。

 或る年の夢は大男が娘を喰っている場面からはじまった。男はそれをじっと見詰めていたが、大男が喰い終わる頃合を見はからってす、と細い指先を動かした。その先には娘が倒れている。

「あれも喰え」

 言われるまでもなく大男は娘にとびかかってすぐさまたいらげた。かれが口のまわりについた血と脂をぬぐっているうちに、男の指先はまたべつの場所を示す。その先にまた、べつの娘があらわれ、大男はすぐさま次の娘にかかった。その娘を腹におさめてしまう頃にはさらに違う娘の姿があり、かれは休むまもなく取りかかる。

 肉をむさぼり、骨をしゃぶる大男を、能面のように整った顔の眉一つ動かさず、男は冴えた眼差しで見据えていた。

「十年にひとりの供物とは、幾ら御前が時を数えず、一年も十年もさして変わらぬとはいえさぞかしひもじかったろう。存分に喰え」

 ひとりごちる言葉も、つぎつぎと娘を喰うことに忙しい大男の耳には届かない。娘は際限なくあらわれたが、長い長い時間をかけてとうとう大男は娘を食べ尽くした。

「もう腹はいっぱいか」

「……ああ。いっぱいだ」

 はあはあと肩で息をしながら大男は地面に転がった。その傍らに男がそっと膝をつく。

「こんなに腹いっぱい喰ったのははじめてだ」

「そうだろうね。そもそも、そんなに腹が空いたことなどなかっただろう」

 大男は昏い色の瞳を男に向けてつぶやいた。

「桜の花が咲くたびに娘をひとり俺に呉れるというのが約束だったが、俺が山で眠っているあいだにも桜は咲いていたのだろうか」

 あたりに散らばった白骨を積み木のように積み上げながら、男は言った。

「十回、花が咲いた。前に御前が来たのは十年前だよ。三年、五年、七年と間遠にして、とうとう十年だ」

「おれは謀られていたのかな」

「そうとも。いまいましい……、自分たちの方から言い出しておきながら約束を違えている」

「人どもの方から?」

「この豊かな土地を貸し与えるのに何の代価も求めなかった御前の寛容さを、人は信じられなかったのだろう。もっとも、御前にとっては少しばかり人が住んだからといって、たいして不都合もなかったのだろうが……。人どもの卑しさが、娘など喰いたいと思ったこともなかった御前に飢餓をおしえ、餓鬼道に堕としめたのだ」

「…………」

「千年から昔のことだ、御前は憶えていないだろうね。だが私は知っている。何もかもを見ていたから」

 男は口許にだけうっすら微笑をたたえて、大男の白銀の長い髪をそうっと撫で、尖った耳にくちびるを寄せた。

「次に桜が咲いたときは、寝坊せずにおいで」

 甘い囁きが耳を打ったところで目が覚めた。

 或いはこんな夢も見た。茫然と座り込んでいる大男の巨躯を、若い男がかき抱いていた。大男は傷を負っているのか、とめどなく出血しており、男の白い装束が紅に染まっていた。男の切れ長の目には憎悪が強く光っていたが、声音は柔らかく静かだった。

「もう腹はいっぱいか」

「……わからない」

「喰いたいなら遠慮なく言うがいい。娘はいくらでもいるのだから」

「随分喰ったように思うが、まだ喰いたいのだろうか」

 巨きな背を向けているので、大男の表情はわからない。

「……おれはおまえを喰いたいのだろうか」

「私を」

「ときどき、おまえを喰うことを思うよ」

「私を、喰うのか」

 男の声が甘く響いた。つめたい光が張りつめた瞳をそっと伏せ、男は誘うようにやさしく言う。

「私は構わないよ」

「けれど、おまえだけは喰ってはいけないと何かがおれに言うのだ」

「私は構わないのに」

 男は目を閉じ、頭を大男の広い、しかし厚みのない肩にあずけた。いつのまにか桜の花が風に吹かれて降りはじめ、二人はひとつの影としか判別できなくなっていた。

 夢うつつに春はめぐり、また十年が経った。


 里の女は目に見えて少なくなっていた。そうでなくともじわじわと数が減っているところへ、追い討ちをかけて頻繁に神隠しが起こるようになった。童から娘になろうかという年頃、両親はもちろんのこと、里の者が皆神経をとがらせて見張っているにも関わらず、娘はふうっと消えてしまう。

 娘が神隠しにあうのは春が多く、今度はどこそこの娘がいなくなったと人々が沈痛な面持ちでささやきあうのを、伊知郎はいつも病床の夢枕で聞いていた。

 いつの年だったか、七太が枕許にやって来て、娘が消えるところを見たと言った。桜が畏ろしいくらいに美しく咲いた日で、娘はふらふらと里と山の境の社の方角へ歩いていったという。引き止めようと必死で追いかけたのだが、足には自信のある筈の七太が、十かそこらの娘の足にどうしても追いつけず、そのまま見失ってしまって、それきり娘は行方知れずだと七太はたんたんと語った。伊知郎は熱でもうろうとして、覚めているのか眠っているのかもよくわからぬ状態でその話を聞いたので、あとで思い出そうとすると夢とこんがらがってしまい、しんじつ七太が話したことだったのか夢の一部だったのか、どうにも判然としないのだった。


 人身御供を捧げる約束の年であったが、里にはまだものもわからぬ童女と老婆がわずかにいるばかりで、年が明け日が長くなるにつれて古老たちや神官は狼狽しはじめた。伊知郎はふたたび鬼退治を申し出た。このたびは七太だけにこっそり打ち明けるのではなく、鬼退治のために社へ行くことを長に正式に願い出た。

 老いた父と母は泣いて止めたが、長は伊知郎に許しを与え、里をあげて伊知郎の鬼退治の支度がなされた。神官が念入りに祈祷を捧げ、まじないをかけた短刀が伊知郎に与えられた。鬼を欺くために伊知郎は娘の姿になりすますことになり、これまでに贄となった娘たちの形見の髪を集めて鬘がつくられた。白い単衣を着た伊知郎に化粧をほどこしたのは七太だった。七重が愛用したという手鏡を伊知郎に持たせ、七太は黙々と白粉を塗り、紅をさした。


 三度目の途を、神官に連れられて伊知郎は妙に昂揚した気分で歩いた。高熱のせいだろうか、しかし不思議とさむけもだるさもなく、ただ気持ちだけが変にぼうっとするようなうきうきするような、雲の上でも歩いているようなおかしな心持ちなのだった。

 里を出てしばらくは、男だと気付かれてはいけないという思いで俯きがちにしていたのに、桜の森に差し掛かる頃にはそんなこともすっかり忘れて伊知郎は上ばかり見て歩いていた。里に先んじて花をつけている桜の森を見上げていると、おのれは女で、鬼を討ちにゆくのではなく、鬼に喰われにゆくのだ、ほんとうはそうなのだと思われた。

 七重とかの子の手を牽いた老神官はとうに亡く、伊知郎を先導した神官はまだ若いようだった。声や、顔を被う布の隙間からのぞく瞳に張りがあった。かれはくくりつけた伊知郎に相対して祈願の言葉をとなえてから、わたしもここにとどまってあなたの闘いを見守ろう、と言った。伊知郎は首を横に振り、人がいるとかえって気が散っていけない、ひとりのほうがよい、どうか里で皆とともに無事を祈り、帰りを待っていてほしいと強く言い張った。神官は幾たびも振り返りながら、去った。

 鬼が現れたらすぐさまほどけるように、戒めはかたちばかりだった。ゆるい縄の下で伊知郎は手を動かし、後ろ手に桜の幹を抱いた。薄い衣を通して、ひびわれた樹皮を背に感じる。火照ったあつい躰につめたい樹の肌は心地よかった。視界は満開の桜の花に覆い尽くされている。激しい悦びがおこり、目眩が伊知郎を襲った。ずっとこうしたかったのだと伊知郎ははっきり悟り、ずっとこうしておれたらよいのにと思った。願わくばこのままこうして桜の幹を抱き、花の下で夢見るような心地でありたい、そしてこのまま千年の古木と一体化したい。それだけを伊知郎は一心に思いつづけた。

 幸福なひとときは重い足音によって破られた。鬼が来たのだ。伊知郎がはッと面をあげると同時に、桜の木々が一斉にざわざわと揺れた。浮き出たあばらを無惨に晒し、飢えのためか目が血走って赤い。ごう、と強い風が吹きつけ、花が鬼に向かって舞った。伊知郎の頭上には一枚も落ちることなく、花はまっすぐ鬼に向かって降りそそいだ。

 不意におどろくほどの憎悪が伊知郎のなかに湧きあがった。伊知郎は短刀をつかんで鬼に飛びかかろうとした、が、指一本動かすことができなかった。ゆるく巻かれていただけのはずの縄が腕に、胴にくい込んで、ぎっちりと伊知郎を締め付けている。

 鬼は大股でずんずん歩いてくる。身動きできないまま伊知郎は鬼を睨んだ。散りつづける花がちらちらと視界を遮る。白い花の嵐にまぎれて、白装束の背中が伊知郎の眼前に立った。ほっそりしたうなじは女のようだったが、背は伊知郎より高い。鬼を迎えるように静かに立っていた。狂気にも似た光を赤い目に宿した鬼は、なんのためらいもなく華奢な肩をつかみ、くびすじに鋭い歯を立てた。

 そのとき風が止み、桜がふいにしん、と黙り込んだ。


 動きを止めた鬼は恐る恐る腕に抱えたものを見つめた。目を閉じ、力なく手足を垂れている横顔は、伊知郎が春ごとに夢に見た美しい男のものだった。

「おまえだったのか! なぜだ、なぜこんなことを」

「とうとう女がいなくなってしまったのだよ。だけど御前は、腹が空いているのだろう?」

「おまえだけは喰いたくなかった!」

「構わないよ……、私の望みだったのだから。もう百年も前から、私は御前に喰われたかった。御前に喰われる女どもが、羨ましくて、妬ましくて、たまらなかった」

「おまえだけは喰いたくなかった、いいや違う、おまえを喰いたくてたまらなかった。けれどおまえだけは。おまえだけは……」

 鬼は悲しげに言った。

「……だがおれはとうとうおまえを喰ってしまった」

 男は頬笑み、細い指先で鬼のこけた頬にふれた。

「もっと喰え。もう腹はいっぱいか?」

「出来るものなら今すぐ止めて山に帰りたいが、もう一口喰ってしまった。我慢できぬ、おれはおまえを骨まで喰うよ」

 ゆっくりゆっくり時間をかけて、鬼は惜しむように男を喰った。娘たちをあれほどがつがつとむさぼったのが嘘のような、厳かな正餐だった。伊知郎はおそろしい思いで見詰めていた。目の前で七重やかの子が喰われたときにも、夢の中でおびただしい数の娘が喰われたときにも感じたことのないおそろしさに悪寒がし、吐き気がこみあげた。すぐにその場から逃げ出したかったが、動きを封じられてそれも叶わなかった。


 やがて男の躰があとかたもなくなったとき、伊知郎がくくりつけられている古木の花がすべて落ちた。

 おおおお、と鬼が哭いた。骨ばった大きな手で顔をおおい、銀髪を振り乱して、地がふるえるほどの声でおおお、おおお、と鬼は何度でも哭いた。その哭き声は伊知郎の肺腑をえぐり、心臓を締めつけた。

 どれほど慟哭していたか、鬼はよろよろと立ち上がり、歩き出した。かれが目指したのはすみかの山の方角ではなく、里へ至る道だった。哀しみで正気を喪った鬼は、里へたどりつくと、そこに住まう者を老若男女問わず片端から喰いつくした。そしてそのまま深く深く眠った。


 今はもう、後ろの山には鬼はいない。

 約束は破られた。この地に住まう者は皆死に絶えた。千年、美しかった桜の古木も枯れ、愚かな伊知郎はひとりきり地に残された。ただ桜の森だけが、朽ちた社に静かに花を降らせている。

 今年の春も逝こうとしている。

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