無限のデジャヴ(022:MD/2004.04.18)
空はどんよりと灰色に曇っていた。いつもどおりで変わることのないその色は下に広がる街に重くのしかかり、境界は溶けあっていた。風景はどこまでいっても無彩色で、どこかからモーターが唸るような機械音だけが間断なく、やけに大きく聞こえてくる。
壊れたネオンが辛うじてぶらさがっている廃ビルの地下から這い出して、鐵は空を見上げた。何の矯正もなされていない、大きな茶色の瞳が不安げに曇る。
(ゆきが、降りそうだ……)
鐵は防護服のフードを被った。薄荷が出かけてそろそろ四日目になる。遅い。何処で何をしているのか、早く帰って来ないと、この感じでは間違いなくもうすぐゆきが降る。
この街に時折降る「ゆき」は、白い、さらさらした灰だ。ここの天気はいつも曇天で、たまに黒い雨が降ったり、白いゆきが降ったりする。そのどちらもが人を殺した。
灰色に塗り潰された景色に、ぽつりと赤い点が滲んだ。薄荷の右目だ。はっとして鐵は目を凝らす。いつ、どのくらいの量使われたのかも定かでない毒ガス兵器の後遺症で、未だに遠くまで見徹せない大気の靄の中から、薄荷は突然、姿を見せた。
「薄荷!」
思わず声をはずませた鐵をみとめると、薄荷は咎める口調で言った。
「鐵、ばか、出てくるなって言ったのに。ゆきでも降ったらどうするんだよ」
「こっちのセリフだよ。何処まで行ってたんだよ、危ないよ」
「俺にはゆきなんて関係ないからね。人間じゃないから」
薄荷は悪びれもせずに笑って見せた。もともとどこか無機的な薄荷の端正な顔だちは、右目に赤い出来の悪い義眼を入れたせいで、ますます機械めいた印象になっていた。つくりもののような笑顔に、今度は鐵が声を荒げた。
「嘘つけ、そんな訳ないんだよ、大体さ……」
「ほら、獲物」
鐵の言葉をあっさりとさえぎって、薄荷はポケットから小さな缶詰を数個取り出した。
「これで四、五日しのげないか」
「……そうだね……がんばれば何とかなる……と思う」
本当は、三日、保つか保たないかだとは鐵は言えなかった。
「だけど、S区まで行ってこれじゃあね」
「そんなところまで行ってたのか! S区は大学の研究施設があったところじゃないか……駄目だ、危ないよ!」
「だから、俺は大丈夫なんだって何度も言ってんのに。まあ、もう行かないけどね。ありそうなところは全部漁って、これだけだから」
どれ程の苦労をしてそれを手に入れてきたのか、薄荷の淡々として動かない表情からは少しも読みとれない。鐵は唇を噛んだ。この地区の物資は、とっくに漁り尽くしてしまった。薄荷が四日かけてようやく三日ぶんの食糧を手に入れ、何とか命を繋ぐような生活も、もう限界だ。
薄荷ひとりなら、ここを離れてもっと生きやすい場所に希望を繋ぐこともできるのに、と鐵は思う。鐵は体の百パーセントが完全な有機体で、機械が入っている部分が全くない。この時代には稀少な存在だった。誰にも収拾をつけられなくなるほどに戦争が泥沼化し、大国の政府が次々に崩壊して百年余り、今なお有害物質の汚染がひどいこの世界を、生身の体で生き抜くのは難しい。いつも防護服を着込んでいなければならないし、それでもシェルターの外で長時間過ごすことは命取りになる。
生き残っている人間のほとんどは、手足や内臓などを人工のパーツで補完している。生まれつきの肉体を失ったが故の、やむを得ずの処置だったはずの義肢や人工心肺は、この環境では天然素材の体より強かった。薄荷は右目と右足をはじめ、体の五十パーセント以上が機械なので(そこまでひどいケースもまた稀なのだが)、比較的らくにこの荒廃した世界を歩けるのだ。
俺には毒は効かないんだ、と薄荷はことあるごとに言って、平気な顔をしている。けれど、鐵は信じていなかった。薄荷の体に有機の部分が残っていない訳ではない。その速度は緩やかであろうと、大気は確実に薄荷を蝕んでいるはずだ。
「ねえ、薄荷、……ここには、もう、本当に何もないよ。わかってるはずだろ。……遠くに、行ったほうがいい」
「また、その話か」
薄荷は今まで何度となく繰り返したセリフを、テープレコーダーのようにすらすらと言った。
「確かにここは食糧は乏しいけど、水はあるし、汚染レベルも低い。それに安全だから。食べ物が残ってるところには、武装してるヤバイ奴らも沢山いるよ」
「ごまかすなよ、俺が外に出ないから、何にもわかってないと思って! ……薄荷、俺、薄荷に生き延びて欲しいんだ。薄荷が生きられるんだったら、俺のことは気にしないで、行ってくれよ」
「……鐵、俺のこと、邪魔なの?」
薄荷は真顔で訊いてきた。鐵は無性にかなしくなって、薄荷から顔を背けた。薄荷には、枷になりたくないという鐵の気持ちが本当に解らないのだろうか。それとも、いつものように鐵をはぐらかそうとしているのだろうか。
「ほら」
薄荷は懐に手を突っ込んで、小さな正方形のディスクを幾枚か大切そうに取り出した。青に、オレンジに、黄色。銀色の円盤型のディスクが保護用の半透明のプラスチックケースに収められた、戦前の記録媒体だ。
焼け跡に落ちているディスクが無傷なはずはないし、万が一無傷だったとしても再生用のハードもないので、持っていたところでどうすることもできない。何の役にもたたない、しかし色ばかりはあざやかなそれを、薄荷は食糧と同じくらい熱心に集め、平べったい缶にきちんと並べてしまっていた。
「こっちは大漁だ。研究所の跡地だからかな、まとまってごそっと残ってた」
薄荷は嬉しそうに言った。
「鐵、久しぶりに、あれやってよ」
「ああ……いいよ」
鐵はオレンジ色の一枚を薄荷の手から抜き取り、徐にじっと見つめた。
「……講義の録音だ。しゃがれた聞き取りづらい声が、ぼそぼそ話してる……科学史かな。録ってる学生はたぶん寝てる。いびきが小さく入ってる。……」
薄荷はじっと耳を傾けている。鐵はディスクを次々に取り上げ、恋人からのヴォイスレターだとか、研究の課程の音声記録だとか言った。触れただけでディスクの記録内容がわかる特殊能力が備わっている、という訳ではなく、ただ、ディスクを見て思いつくことを適当に喋っているだけだった。
初めて薄荷がディスクを拾ってきたとき、それを見た鐵は何の気なしに「へえ、音声データかな。きっと、個人的な日記だね」と口にした。それを聞いた薄荷は珍しく驚きを顔に浮かべ、どうしてわかるんだ、と鐵に詰め寄った。何となくそんな気がしただけだよ、と鐵は慌てて答えた。以来、薄荷は拾ったディスクを鐵に見せ、鐵に「再生」させるようになった。鐵は鐵で、どうせ見ることのできないディスクの中身をでっちあげることを、それなりに楽しんでいた。
その日、薄荷が拾ってきたディスクの最後の一枚は、水色と柔らかい白とうすいグレイのマーブル模様で、それまで薄荷も鐵もそんなデザインのものは見たことがなかった。
「何これ……きれい」
「それ、一枚だけ、食糧と一緒に厳重に隠してあったんだ。重要機密か何かか?」
「と、見せかけてラヴレターだったりしてね。見せて」
それを手に取った鐵の唇から、旋律にのった声が零れた。
…………、…………
「……うた……?」
薄荷が呆然と呟いた。その言葉に、鐵は我に返った。たったいま目が醒めたばかりのように、ぼんやりしている。
「俺、いま、どうして……知らないのに」
「……聞いたことのない言語だったけど」
「わからない、自分でも、何語で何て言ったのか、わからないんだ……何でだろう、急に頭の中にきこえてきたんだ」
不意に鐵の茶色い瞳から涙がこぼれた。慌てて拳で目元をぐいっと拭ったが、涙は止まらない。あとからあとから、あふれてくる。
「どうしよう、俺、アタマおかしくなっちゃったのかな」
「鐵」
薄荷が、背中をぽんと叩いた。両手とも義手の、薄荷の手のひらはやさしかった。
「凄くきれいな曲だった、鐵。もう一回、うたってよ」
鐵はもう一度歌った。知らないはずなのに、何度でもうたうことができた。エンドレスリピートされた音楽ディスクのように。リピートすればするほど、そのメロディーは懐かしいものになり、ずっと以前から知っていたような錯覚すらおぼえた。
薄荷も鐵も、生まれたときには世界はとっくに壊れていて、美しいものは何もかも失われた後だったから、歌なんてほとんど知らなかった。けれどその歌を聴いていると、歌が街に溢れていた平和で穏やかだった時代を、実際に自分たちがそこに生きていたかのように思い出すことができるのだった。
白い羽根のような灰が、空をふわふわと舞いはじめた。
「ゆきだ。……もう、入ろう」
薄荷が促した。鐵は頷いて従ったが、廃ビルの瓦礫を跨いでなかに踏み込んだところで振り返って、空を見上げた。
「ゆきってさ……本当は冷たくて、べつに有害なものじゃなかったんだよね。戦争の前の時代には、子供たちがゆきで玉つくってぶつけあったり、家みたいのつくったりして遊んだって、前にどこかで聞いたことがあるよ」
「見た目は、俺達の知ってるゆきにそっくりで……だから、この灰の事もゆきって呼ぶようになったんだろ」
「さっきの、あの歌は……そういう時代の歌なんだろうな」
鐵は遠くを見つめて呟いた。ただでさえ悪い視界が、灰によっていっそう霞んでいる。いまに、目の前まで白く閉ざされてしまうだろう。
「鐵」
声の方に顔を向けると、薄荷の赤い瞳が鐵をまっすぐに見ていた。
「俺さ、鐵が読んでくれるディスクの中身、全部、本当だって信じてるんだ。お前はでっちあげだって言うけど、でも、中身を確かめることは永久にできないんだから、……それでいいと思うんだよ」
「うん……」
「ねえ、鐵、……俺、そのディスクと鐵が再生してくれるデータが、食糧や寝床よりずっと大切なんだ。おかしいかな? もっとディスクを見つけたい、その中に入っている未知のデータをもっと鐵に読んでもらいたい、という気持ちが消えたら、俺は明日も生きていたいと思えなくなるよ」
「…………」
「しかも今日は歌まで見つかった。……こんなに動揺したの、いつ以来か覚えてないよ。もしかしたら、他にも歌の入ったディスクがあるかも知れない、もっと見つけて鐵に再生してもらわなくちゃ。
……だから、鐵、俺のこと追い出さないで欲しいんだけど」
何も言えずに、鐵はただ頷いた。薄荷がつくりもののように笑う。
ゆきは、音も無く降り続いて、廃虚の上にうっすらと積もっていく。
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