すべて世はこともなし(011:柔らかい殻/2004.09.09)

 健ちゃんへ


 お返事が遅くなってごめんなさい。忙しいのではないのですが(毎日ぴったり五時にあがるわたしが忙しいなどと言ったら、残業続きの正社員さんたちに怒られてしまいます、)まだいろいろと慣れないせいか、家に帰ってごはんを食べるともう眠くなってしまうのです。

 お返事書かなきゃと思うのに、お風呂に入るのが精一杯で。


 健ちゃんからのお手紙、楽しく読みました。写真もありがとう。

 子どもたちの笑顔もかわいいなと思ったけれど、どの写真も、背景に写っている空が青くてきれいなことにびっくりしました。

 オフィスがビルの五十二階にあってとても見晴らしが良いので、パソコンを打っている最中にもついつい窓から外を眺めてしまうのですが、どんなに晴れてお天気の好い日でも、わたしが見る空は健ちゃんの写真のようには青くないような気がするのです。今までは特に何も考えず見上げた空をきれいだと思っていたのだけれど、わたしが気がつかなかっただけで東京の空気はすっかり汚染されていたのでしょうか。


 派遣されてから二週間たって、まだわからないことだらけですが、職場の人たちの名前はだいぶ覚えました。みんな親切です。手とり足とり、本当に細かく教えてくれます。わたしはキーボードを打つのは速い方だと思っていたんですが、どれだけ速くてもさみだれ打ちでは話にならない、と言われてブラインド・タッチをいちから教わったりしています。

 頼まれた書類を清書したり、お茶を出したり、かかってくる電話に出たりするだけで、一日はあっという間に終わってしまいます。こまごましたお手伝いをしているだけなので、自分の通う会社がどんなことをしているのか、わたしにもよくわかっていません。

 でも、派遣とは言えせっかく社員になれたので、がんばろうと思います。


 わたしのことばかり長々と書いてしまってごめんなさい。また、そちらの様子もいろいろ教えてください。健ちゃんと、かわいいリヴちゃんをはじめ健ちゃんが面倒を見ている子どもたちが健康であることを、地球の裏側から願っています。

 それでは、またね。


 4月17日 沙智子



 健ちゃんへ


 こんにちは。東京は雨が続いています。梅雨だから仕方ないんだけど、こうも毎日毎日降り続くと本当に気が滅入ってきます。

 そちらは灼けるように暑いとのこと、ちょっとだけその青い空をこっちにもわけて欲しいな、などと思ってしまいます。


 わたしは相変わらずです。お仕事の手順はほぼのみこめましたが、結局自分が何をやっているのかはよくわかりません。

 この頃、目に見えない重い綿のような、生ぬるく重たい空気が頭のまわりをぼんやり漂っているみたいで、やけに疲れます。そのせいかミスばっかりしていて自分でも嫌になります。昨日は、課長あてにかかってきた電話に「ただいま席を外しているので折り返しお電話させます」と応対したら、タバコ休憩から戻ってきた課長に「これからすぐ出かけるんだから電話なんかしていられないのに、無責任なことを言うな」とおこられました。

 今日は、パワーポイントの操作に少し手間取っていたら、隣のデスクの社員さんに「明日までにガイドブックを一冊買って来い」と言われて三千円とビックカメラのポイントカードを渡されました。自分で買います、と何度も言ったのに聞いてもらえなくて、結局まだわたしのバッグのポケットに入っています。親切でしてくれていることだとわかってはいるけど、途方に暮れて少し泣きました。

 給湯室でひとり、重いガラスの灰皿を洗っているときだけは失敗をする心配がないので気が休まります。あこがれのデスクワークに就いたのに、洗い物がいちばん楽しいなんて困ったものです。


 最近は家と会社を往復するだけで他のことを何もしていないような気がします。気分転換にお菓子でも焼けばいいのでしょうが、レシピのスクラップが溜まる一方です。先日、サークルのみんなが企画してくれた飲み会も、会社の定例の親睦会と重なってしまって出られませんでした。

 お金を稼ぐ手段でしかないはずの会社がどんどん生活の中心になり始めて、これでいいのか不安でたまりません。信念を持ってやりがいある仕事をしている健ちゃんがうらやましい。わたしも「生きてる」って実感したい。


 急に寂しくなってしまいました。健ちゃんに会いたいです……。体を壊さないよう、くれぐれも気を付けてください。またおたよりします。


 6月9日 沙智子



 健ちゃん


 お手紙読みました。うらやましいなんて書いてごめんなさい。健ちゃんの言うとおりです。わたしは設備の整った清潔なオフィスできれいな事務のお仕事をしていて、いじめられているわけでも嫌がらせされているわけでもないのです。

 こんなに快適な環境でのほほんとしているわたしが、愚痴ばっかりこぼしていたり、まして発展途上国をうらやんだりするなんて、おかしいですね。目がさめました、ごめんなさい。


 東京も外は死んでしまいそうに暑いけれど、オフィスはクーラーががんがんにきいていて寒いくらいです。みんなひざ掛け毛布を使っています。わたしは人一倍寒がりなので、ときどきカーディガンを着ていることもあります。ぜいたくな悩みですね。


 このところ少し忙しくてあたふたしっぱなしで、そんなときにコピーを頼まれると、余裕がないわたしはつい無愛想になってしまって、とうとうそれを注意されてしまいました。わたしより半年長く勤めている滝田さんは、どんなに手いっぱいでもニコニコとお茶汲みやコピーをこなしていて、それは偉いなあと思うけれど、そのかわりたまにコピーの枚数をまちがえているのね。その滝田さんを見習えと言われてしまいました。わたしは指示をまちがえることはないのになあ、と思ってちょっともやもやしています。

 でも、健ちゃんがいま接している、学校へも行かせてもらえずゴミをあさって生きている子どもたち、とりわけ親に売られて売春宿へ連れて行かれそうになったリヴちゃんのことを思うともやもやしていることが申し訳なくなります。オジサンの嫌味ぐらいでもやもやするわたしはとても弱いなあ。もっとがんばらなくちゃ。


 もやもやしてばかりいるせいか、頭から肩にかけて感じていた重い空気が濃くなって、体中をくまなくおおっているようで気分がふさぎます。こころなしか動くのも億劫です。

 だけど、窓の外の空は健ちゃんが見ている空とつながっていると信じて、がんばります。では、また。


 8月24日 沙智子



 健ちゃん


 どうしよう、体のまわりだけでなく部屋じゅうに重いもやもやが溜まってきました。もやというより、もう質量を持った何かです。卵の堅い殻の内側にはりついている、たよりない膜みたいなもの、と言えばいいのかなあ、うまく説明できませんが、とにかく柔らかい何かに部屋ごと覆われてしまいそうです。

 それのせいで手足には重りがついているみたいだし、晴れているはずの空も灰色がかって見えるし、ごはんは何を食べても同じ味がします。休みの日は一日寝てばかりです。

 金曜日の夜は特にユウウツです。どうせぐったり眠っているうちに月曜日になって、また出勤しなければいけなくなるからです。


 食べるものも着るものも、あたたかい家も、優しい家族も友達も、お金も、テレビも、パソコンもあるのに、わたしはどうしてこんなに泣いてばかりいるんだろう。こんなに恵まれているのにそれでもつらいわたしは、どうしたらいいと思いますか?

 健ちゃんと毎日一緒にいられて、たすけてもらえるリヴがうらやましい。わたしもリヴみたいな境遇だったらよかった。健ちゃん、あなたにだけはわたしも「たすけて」って言っていいですか?


 8月31日 沙智子



 健児さま


 混乱したお手紙を立て続けに送ってしまい申し訳ありませんでした。あなたを困らせてばかりいて、本当にごめんなさい。

 わたしよりはるかにかわいそうなリヴちゃんにみにくく嫉妬して、彼女と入れ替わりたいなどと簡単に言うわたしは、あなたが言われるとおり何もわかっていません。わたしに見える世界は狭いし、あの重いもやのような柔らかい殻のようなものに視界をさえぎられて、何も見えていないのです。


 がんばります。わたしは恵まれているのだから、がんばります。


 10月5日 沙智子



 健児さんへ


 お手紙ありがとう。お返事が遅くなってごめんなさい。リヴちゃんはお元気ですか? わたしは問題ありません。


 毎日がんばってお仕事しています。

 昨日はすごく面倒な書類の作成を「急で悪いけど、今日中に」と課長から依頼されました。かなり急がないと間に合わないと思ったので、必死でキーボードを打ち、「お昼行くよー」と同僚の女の子達に呼ばれたときも「あとで行くので、先に食べてきてください」と言いました。そうしたら課長が「いいよいいよ、みんなとランチ行っておいでよ、仲間外れはよくないよ」と強く言い、区切りをつけてからお昼ご飯を食べたい、とわたしが言っても「女の子がひとりで残ってたら僕がいじめたみたいでしょ、行ってきな」としきりに言うので仕方なくみんなとご飯を食べに行きました。書類が気になって喉を通らなかったけれど。

 午後、泣きそうになりながら続きをやっているあいだ、課長はタバコを吸いながら「がんばれ」とずっと励ましてくれました。優しいひとなのだ、と思うことにしました。


 何とか作業を終わらせて、わたしは課長の使った灰皿を給湯室に洗いに行きました。ぴかぴかになった重いガラスの灰皿を見ていたら、どうしてもがまんできなくなって、わたしは灰皿をオフィスの大きな一枚ガラスの窓に向かって、五十二階のすばらしい眺めに向かって、思いきり投げつけました。一度やってみたかったのです。

 ガシャーンと大きな音がして灰皿は粉々に砕け散り、オフィスの壁面には大きな風穴があく、そんな光景を夢見ていました。そうすれば、わたしもここから出られると思った。


 けれど何事も起こりませんでした。灰皿はふかふかのクッションにあたったみたいにやわらかくはずんで、平穏に床に落ちました。滝田さんが「落っことしちゃったのね」とニコニコして、灰皿を拾ってくれました。それだけでした。

 健児さん、重いもやのような、たよりない膜のような、柔らかい殻に覆われていたのはわたしとわたしの部屋だけじゃなかったのです。オフィスも、オフィスが入っているビルも、東京も、多分この国のすべてが柔らかい殻の中にあるのです。

 だからこの国は豊かで、安全で、平和です。そしてこの国から見える空はもうあなたの頭上の空とはつながっていないし、青くもないのです。


 つまらないことを長々と書いてすみません。わたしの近況でお知らせするようなことが何もなかったので……ともかく、わたしは元気で幸福です。何しろ殻の中にいるのですから。エアコンは効いているし、レストランでは食べきれないほどの料理が出てくるし、ショウウインドウにはもったいなくて着られないようなきれいな服がいっぱい並んでいます。空がよく見えないだけです。足りないものはありません、このうえなく快適です。

 そしてわたしが殻を毀して外へ出ることはないでしょう。だから、もうわたしのことは一切心配しないでください。


 健児さんのいる国も、はやく柔らかい殻に覆われて幸福で平和な国になるといいですね。心からお祈りしています。


 お元気で。さようなら。


 12月20日 沙智子

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る