マルボロ・メンソール・ライト(004:マルボロ/2004.04.29)
タリーズコーヒーの、ガラスで隔離された喫煙席は微妙だなあといつも思う。最近のコーヒーチェーンは大抵、徹底した禁煙か分煙をうたい文句にしている。タバコを吸わない私にはそれは有り難いのだけれど、それにしてもあの中にいるのは落ち着かないんじゃないかな、などと余計な心配をしつつ、ガラスの向こうで煙を吐き出している人たちをじろじろ眺めてしまう。
無人のテーブルに無造作に置かれた空き箱のパッケージが不意に目にとびこんで、どきっとした。Marllboro、でも、赤だ。メンソールじゃない。なんだ、と興味を失って、べつにメンソールだったとしてもどうという事はないのに、全部が啓さんに繋がっている自分の思考回路に苦笑した。
窓ぎわに席をとったものの、灰色の曇天だの、車も人も渋滞している街の景色だのを眺めて楽しいわけでもなく、私は向かいのビルの壁面にでかでかと設置されている街頭ヴィジョンをぼんやり見ていた。スペースシャワーTVか何かだろうか、今週のヒットチャートらしきものが百位からカウントダウンされている。
本屋に寄ってオリコンを立ち読みしようと思っていたのに、すっかり忘れて来たことを思い出した。こんなに待たされるなら読んでくればよかった。あのひとたちの新曲は、何位くらいに入っているだろう――
「ごめん、遅くなった」
ようやく待ち合わせ相手の声がして、私はもの思いからさめた。サトミがアイスカフェラテを二つ載せたトレイを狭い丸テーブルに置いて、座った。その半歩後ろに立っていたユッコのスカートが、目を引いた。かたちは普通の台形スカートだけど、あざやかなオレンジの生地は不思議な質感に見える。そのスカートに、ユッコは濃紺の地に蛍光色で化学式を模したプリントが施されている七分袖のTシャツを合わせていた。
「……ユッコ、またあの店で服買ったの?」
開口一番私がそう言うとユッコは少し顔を赤くして笑った。いつも、ベージュや淡い水色や灰色がかったピンクの、無地でおとなしいが仕立てのいい服を着ていたユッコは、この頃服装の感じががらっと変わって、会うたびにびっくりする。RIDE ON NEW WAVE!という新進のデザイナーズブランドにハマっているのだ。そこへサトミがいきおいよく口をはさんだ。
「そのことなんだけどさあ、サワ、聞いた?」
「え、何を」
「ユッコが恋しちゃってるって話」
「……聞いてない。そうなの?」
一応、ユッコに聞いたのだけれど、サトミが先まわりして答えた。
「それがさ、RIDE ON NEW WAVE!の店員なんだって、相手が。それってどうなの? サワ、どう思う?」
「どうって……ねえユッコ、ほんとなの?」
ユッコは赤い顔のままで、サトミに非難のまなざしを向けて言った。
「サトミってばさっきからずっと『それはどうなの?』しか言わないんだよ。今井さんのことも悪口ばっかり言うし」
「いまい?」
「……この前サワとサトミに付き合ってもらって、三人でお店行ったじゃない、原宿の」
「ああ、うん」
蛍光色のライトがまぶしい、近未来的なディスプレイの店内で、店員は宇宙服みたいなコーディネイトだった。その空間じたいは嫌いではなかったのだが、私の馴染んでいるスタイル(ライヴに通うようになってから、私は黒を基調にした服を着ることが多くなった。今日も全身黒い)とも違うので、多少落ち着かなかったおぼえがある。
頬杖をついたサトミが投げ出すように言った。
「あのときユッコにずっとへばりついてたニヤけた男だよ」
「またそういう! なんでそういう言い方ばっかりするかなあ」
そういえば、ユッコに応対していた店員はやけに愛想がよかった。ユッコさん、と愛称で呼び、ユッコさんこういうのも好きじゃないですか、これなんかお似合いだと思いますよ、とずっと話しかけていた。あんなにつきまとわれてユッコはうっとうしくないのか、ほんとにおっとりしてるよねあの子は、とサトミと私はひそひそ言い合っていたのだが、そうか、ユッコはむしろそれが嬉しかったのか。
「ああもう、サトミに言うんじゃなかった」
ユッコは感情が高ぶると、頬でなく目もとが真っ赤になって、泣きそうな顔になる。泣き出すわけではないとわかっていても、私は少し焦ってしまう。しかしサトミは一向に構わず、平気でぽんぽん言葉を続ける。
「だってさあ、その今井某はべつにユッコに個人的な思い入れがあって笑いかけてるんじゃないのにさ。洋服屋なんて、売るためだったら似合ってなくても『お似合いです』ぐらい言うんだからね? それを真に受けてホイホイ買い物してたらあんた、あいつに貢いでるようなもんだよ」
ぎくっ、とした。
啓さんだって私に向かって微笑んでいるわけじゃない。やさしい言葉は、セールスのためだけに誰にでも言っているセリフでしかない。
「しかも、ユッコは相手のこと何も知らない訳でしょ。外見とあの店で働いてるってこと以外は。それって本当に恋なの?」
本人は自覚していないらしいが、サトミの語調は強い。目の細いきつめの顔だちに加えてその物言いで、彼女は必要以上に怖がられている。
「知ってるよ。結構話したことあるもの」
「だからそれは、店員としてのセールストークだから会話にはカウントしないんだよ。プライベートの今井某がどんな人間か、あんたは全然知らないじゃん」
ユッコはくやしげに黙ったが、ややあってぱっと顔をあげた。
「あ、吸ってるタバコの銘柄知ってる!」
「……何、吸ってるの?」
何か言おうとしたサトミより早く、条件反射のように私は訊いていた。ユッコが嬉しそうに答える。
「ええとね、マルボロだって言ってた」
「マルボロ? ……マルボロの、何?」
「何って……マルボロはマルボロじゃないの?」
「いろいろあるじゃん、普通のとかライトとか。赤いマルボロ? それとも緑の?」
「……うーん、そこまでは知らない……」
そう言ったユッコはほんの少しだけ寂しそうだった。
私は、知っている。啓さんはメンソールだ。
それだけじゃない、啓さんが、六月生まれの双子座で、O型で、料理が得意で、好きなスポーツはサッカーで、身長179センチだということも、私は知っている。
「いやいやそんな豆知識はどうでもよくて」
サトミが何か言っている。私はちらっと街頭ヴィジョンに目を遣った。名前しか知らないヒップホップグループが映っていた。あのひとたちはまだ出てこない。まさか、もう出てしまったということはないだろう。
「何にしてもそれって恋っていうか、ただの憧れだと思うんだけど、あたしは」
その言葉が刺さって、我に返った。ユッコはもどかしげな顔で、しばらく何も言わなかった。やがて、彼女はぽつりとつぶやいた。
「……わかんないよ」
ユッコは両手で顔を覆い、しっかりした口調で一気に言った。
「わかんないよ、そんなの。べつに今井さんとどうにかなりたいとも思ってないし。今井さんが、私のことを個人的にどうも思ってないってことも、今更言われなくてもわかってるし、それでいいの、私は。自分はお客さんのひとりでしかないと思うから、私は今井さんに笑顔を向けられても平気だし、気楽にも話せるんだし、……もし万が一、今井さんが私のことを本当に意識するようなことがあったら、……私はもう、あのお店には行けなくなる。そんなことは絶対にないけど」
「それやっぱり恋じゃないよ。なんていうか、少女漫画っぽいもん、ユッコの言ってることは」
アイスカフェラテの氷が溶けて、薄くなってしまっている。自分のアイスコーヒーをひとくち飲んだら、それもひどく薄かった。
「そうなのかも知れない。わかんない。……わかんないけど、今井さんのことばっかり考えちゃうんだよ。好きすぎて苦しくなっちゃうんだよ」
私にはユッコの言っていることが痛いほどわかった。私も、同じだ。
啓さんのことばかり考えてしまう。そんな自分が苦しい。馬鹿みたいに、私はあのひとが好きだ好きだとそればかりを思い続ける体をもてあます。どうしていいかわからず、どうすることもできず、部屋の床に寝転がってただひたすら啓さんのことを考え続ける。
近づきたくはない。けっして。
――いちどだけ、もの凄く近づいてしまったことがある。
自分をもてあましすぎて、もっとあのひとを見ていたい、とにかくもっともっとという欲望を制御できなくなった。血迷って前へ行ってしまった。
ライヴハウスの前の方は身動きできないほど人が詰まっていて、いつも陣取るいちばん後ろよりずっと視界が悪かった。何も見えずにもがいていたら、突然私の目の前の空間がぽっかり空いて、そこにあのひとがいた。
びっくりして固まった。呼べば確実に届く近さで、息もできないと思った。間近で見る彼はTVに映る姿とそっくりそのままで、ただ笑みを浮かべた口もとがTVで見るよりやさしかった。そのやさしさに私は動揺して、なす術もなくぼんやりしていた。
不意に彼がこっちを見た。彼の視線はとても遠くて、そんなことは有り得ないとわかっていても、目があってしまったら、私がここにいて彼を見ていることを知られてしまったら、と思うだけで怖ろしく、私は目を逸らした。
私の視界はすぐに誰かの体で塞がれてしまったから、それは短い時間だったのだと思う。その日のライヴのセットリストを、私は何も覚えていない。ただ、あのひとの口もとがやさしかったということ以外、何も思い出せない。
「タバコ吸う男なんてだめだよ」
不意に突き放すような調子でサトミが言った。
「何それ」
思わず気色ばんだ私に、サトミはちょっと戸惑ったような顔をする。
「……そこで何であんたがムキになるのよ、サワ」
「そうだよ。どうせサトミは今井さんにケチつけたいだけなんだから」
やさぐれたユッコが自嘲ぎみにそう言うと、違う違う、とサトミは手を振った。
「いや、単純に隣でタバコ吸われるのは迷惑だ、っていう話さ。まして彼氏なんてさ、四六時中一緒にいる訳だから。最悪だよあのにおいは。ホント、キスするのも嫌になる」
ユッコの肩が一瞬揺れた。私の肩も揺れていたと思う。かすかな、静電気のような痛みを一瞬感じた。
その場にいた三人のなかで、サトミにだけ恋人がいた。同じサークルで知り合ったとかで、付き合ってそろそろ一年くらいになるのだろうか。いつも無印良品のシャツにジーンズのサトミは、三人のうちでいちばん服や化粧に気を使わない。そのくせ、三人のうちでいちばん女らしく見えるのもサトミだった。
「……なんだ、ダイゴのことか」
付き合いはじめの頃にダイゴがダイゴがとサトミに散々のろけられたせいで、ユッコと私はその名前にすっかり馴染んでしまった。それでサトミの恋人は、面識のない私たちにも親しい友だちか何かのように呼び捨てにされている。
「言ってるんだけどね、タバコやめろって。禁煙するって口ばっかりで、全然だめなんだよね」
さっき今井さんの話をしていたとき、ユッコが隠しきれずにいた照れともよろこびともつかない面映ゆさは、ダイゴのことを話すサトミの表情にはない。私は訊いた。
「サトミ、ところでダイゴは何吸うの」
「え?」
サトミはきょとん、としてから、言い放った。
「知らないよ。興味ないもの」
窓の外に目を向けると、街頭ヴィジョンのヒットチャート・カウントダウンは十四位で、ちょうどあのひとたちの新曲のビデオクリップがオンエアされていた。あのひとの姿を見た動揺を表に出さずにやりすごすことは出来たけれど、さりげなく視線を外すところまではさすがに無理だった。吸い寄せられるように一点を見ている私に、ユッコが気付いた。
「あ、サワが好きなひとたちだ」
「え、どこに……ああ、あれか。びっくりした、あたしそこの道でも歩いてんのかと思ったよ」
「まさか、そしたら今頃サワは飛び出してるよ」
「それにしても目ざといなあ。……なんだ、十四位? 結構売れてるんじゃん。サワが好きなのってどれだっけ、ヴォーカル?」
「ギターのひとじゃなかった? 何て名前だっけあのひと、しのはら……」
「篠原啓」
目線をあのひとから離さないままで短く答えてから、おまじないを唱えるように私は呟いた。
「……マルボロ・メンソール・ライト」
「……えっ?」
サトミとユッコが声を揃えて聞き返してくる。私はその単語を繰り返すことはしないで、ひとりごとのように言った。
「啓さんが吸ってるタバコ」
「へえー、そうなんだ」
「……よく知ってるねそんなこと。本当に好きなんだね、サワは」
感嘆半分、あきれ半分という口調でサトミが言った。「知っている」「本当に好き」……私があのひとのことをどれだけ想っているかを、その感情の馬鹿げているくらいの真剣さを正直に話したら、そのときサトミは何と言うだろう。少なくとも今のように簡単に、よく知ってるね、好きなんだね、とは言ってくれないだろう。
もの凄く近づいてしまったあのとき、それでも、あのひとと私のあいだにはガラスの仕切りがあった。それは見えないけれど、どうやっても壊せない壁で、そのために私があのひとの肉体に近づけば近づくほど、あのひとは私にとって遠いものになる。そのことは私を悲しませ、深く安堵させた。
何とはなしにガラスの向こうの喫煙席を見ると、赤いマルボロの席の主は戻ってきていた。これといって特徴のない男の人だ。立ちのぼる煙が、ガラスにぶつかって逆流する。
くわえタバコでアコースティック・ギターを抱えた啓さんの、雑誌のスチール写真が脳裡を過ぎる。電車の中でときどき隣の男性がまとわりつかせている、へんに甘いような(私も好きにはなれない)あのタバコのにおいと、タバコを吸う啓さんは、私の中ではどうしても結びつかないのだった。啓さんの吐き出すタバコの煙が、私の呼吸する空気に混ざることはけっしてない。
私は苦笑しながら言った。
「知ってるよ、啓さんのことなら何でも。好きだから」
そこに宿した私の感情の本気さが伝わることもまた、けっしてない。
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