レッスン100(のうちの9)

柳川麻衣

夏の思い出(003:荒野/2010.09.22)

 目の前には満々と水をはられたプール、スタート台、緑色のフェンス、青空、平和な夏休みの午後の部活動の光景。水からあがったわずかな隙にも太陽は容赦なく肌を焼き、濡れたコンクリートのざらざらした感触が足裏に微かに痛い。

 水飛沫が立った。あざやかに抜き手をきって瞬く間に二十五メートルを泳ぎきり、水棲動物のようにしなやかな身のこなしでプールサイドにあがった阿左美あざみ葉子を、水果みかはじっと見つめた。目が覚めるようなブルーの幾何学模様、セパレートに見えるショートスパッツ丈の水着は今シーズンの新作で、水果たち現役部員が揃いで着ている黒い、凡庸な水着とは一線を画していた。たかだか三つ四つの年齢差でしかないのに高校生と大学生との境界はしっかりと横たわっていて、十七歳の水果には二十歳の阿左美がひどく遠く、まぶしい。

 練習を監督しに来ている卒業生は阿左美の他にも何人かいて、部員のフォームを眺めやりながら時折楽しげに話をしたりしていた。阿左美はひとり、離れたところに立って厳しい目を水面に落としている。日に焼けて引き締まった百七十センチの長身、すらりと伸びた長い手足。阿左美の体には無駄なところがひとつもないように水果には思えた。

 水果は自分の体を見下ろした。小柄に生まれついたので、身長は阿左美には及ばないが、地道な基礎トレーニングをさぼらずに黙々と続けたおかげでだいぶ締まった体つきになった。体脂肪率も落ちた。常にお菓子を携帯して切らすことなくだらしなく食べているくせに、痩せたーい、とか、ダイエット中なの、とか始終口にしている同じクラスの女の子たちは、水果の少年のようにほっそりした体をほめ、羨む。そんなこと、と笑ってみせながら、ぜい肉をぷよぷよさせていても男の人ときちんと恋愛できてそれで本望な人たちとは訳がちがうんだ私の望みは、と水果は胸の裡だけで呟く。

 耳許でホイッスルが鳴った。物思いから覚めて、水果はスタート台にのぼった。強い眼差しを対岸から水果に注いで阿佐美が立っている。大きく息を吸い込んで、水果はプールに飛び込んだ。


 八月の長い日は、水泳部の練習を終えて帰路につく頃にも沈まずにいて、「夕やけこやけ」のチャイムが遠くで鳴っているのに空はまるで明るい。日中の煮え立つような暑気を固めてゼリーにしたような空気が体を包む。が、泳いだ後の水果の肌にはそのあつさもそれほど苦ではなかった。

 家の最寄りのひとつ手前の停留所でバスを降りる。一週間もあれば、と光留みつるが言ったのを忘れた訳ではなかったが、水果は十日待った。念のため、と思ったのだ。具体的に何を懸念しての「念のため」なのかは、水果本人にもよくわかっていなかったけれど。


 両親が共働きなので、帰宅するのは大抵水果が一番先になる。とくに長期休暇中は、ひとりで家に居るのに飽きて、水果はよくバス停ひとつ離れた母方の祖父母の家に行った。ただ、祖父も祖母も水果の母と同じく活発で外に出るのが好きな人たちで、趣味の集まりだボランティアだとわりあい忙しく、水果が突然訪れてもこちらの家にも誰もいない、ということも珍しくなかった。

 そんな時でも水果は勝手にあがりこむ。いつも可愛がってくれる祖父母に会いたいという気持ちももちろんあるけれど、マンション住まいの水果には祖父母の住む木造一戸建ての古い家そのものが魅力的だったのだ。縁側の戸を開け放したまま庭に面した座敷に寝ころんでぼんやりするのは、水果の最高の贅沢だ。

 しかも少し前から光留叔父が帰ってきていた。母と十歳以上も齢の離れた弟の光留は、数年前に五年だか六年だかかけて大学を卒業したあと、カメラを片手に年中どこかへ出かけている。個人的な撮影旅行のことも、たまには仕事のこともあったが、とにかく滅多に家にはおらず、帰って来ても寝てばかりいた。

 水果にとっては叔父というより年長の従兄のような感覚で、気安く「光留ちゃん」と呼んでいた。祖父母も母もことあるごとにもう少ししっかりしてもらわないと困る、とこぼしていたが、水果はひょろひょろと背ばかり高くて学生のように頼りない叔父を慕っていた。

 あの日も、部活帰りの水果は大した理由もなく祖父母の家に寄った。勝手口にまわって、いつもどおり縁側から座敷にあがろうとしたら、そこに光留がひっくり返っていた。大の字に手足を投げ出して目を瞑っていた光留は、ごそごそと水果があがりこんだ音を耳ざとく聞きつけて、顔を向けた。

「……あ、起こした?」

「何だ、今日も来たのか。かあさん……ばあちゃんなら出かけたぞ」

「光留ちゃん、いつ来ても寝てるね」

「暑くて何も出来ないよ、寝る以外に。まったく、日本はいつから熱帯になったんだ」

「でも、だいぶ涼しくなったよ。日も落ちたし」

「そうかあ? まだ暑いだろう、風もないし。だいたい蝉がミンミンわめき狂ってて、それ聞いてるだけで暑苦しくなる」

 こんなんだったら湿度ないぶんアフリカのほうがましだぜ、たぶん、と無責任に言って光留は起き上がった。畳の上、寝転がったままでも手が届くところに古い洋雑誌が無造作に置かれている。英語版のナショナル・ジオグラフィックス。水果は、既に何度も眺めたことのあるそれを手に取った。

 雑誌にはすっかり開きぐせがついていて、適当に開くといつも同じ頁があらわれる。見開きいっぱいに広がる、どこか遠い外国の、赤茶けた土と灰色の空ばかりの荒涼とした土地の写真だ。初めてそれを見たとき、荒野だね、と水果が言うと、それは砂漠だ、と光留は言った。砂丘と隊商とオアシスだけが砂漠ではない、ひび割れた大地からしょぼしょぼ草が生えているような、そういう砂漠もあるのだと、光留は熱心に教えてくれた。そう言われて納得はしたものの、それは水果が「不毛の荒野」という言葉から漠然と思い描いていた風景そのものだったので、水果にとってその写真はやはり「砂漠」ではなく「荒野」なのだった。

 光留はその光景をこの世で一番愛していた。カメラの師匠から貰ったというそのナショナル・ジオグラフィックスと、愛用の一眼レフをかれは常に肌身離さず持ち歩いている。

「光留ちゃん今度はどこ行くの」

「帰ってきたばっかりなのにもう次の話か」

 グラスに麦茶を汲んで台所から戻ってきた光留は、ややうんざりしたような声を出した。

「次は……、どこだったかな、ハワイだかグアムだかサイパンだか」

「えーっ、いいなあ」

「……のイメージで、どっかそのへんのいなかの海辺」

「またなんか、広告?」

「そう。しかもまた代打で」

 光留は大きく溜め息を吐いた。

「せめて海でも撮りたいけどねえ。どうせメインは水着だし」

「光留ちゃん海そんなに好きじゃないじゃん」

「だけど、胸ばっかり大きくて似たような顔の子延々撮ってるよりは、まだ海のほうが全然飽きないよ」

 光留は風景写真を志しているのだった。仕事を選べる立場ではないので何でもやるが、ポートレイトには気乗りがしないと言う。

「それにしてもおまえ、いい色に焼けてるなあ」

 今気付いた、という様子でまじまじと光留が水果を見た。

「毎日泳いでるもん、部活で。今日も泳いできたし」

「ああ、そうか水泳部だっけ。そうかー、そしたら水果連れてって水果のスクール水着姿を撮ってるかなあ。どうせ水着撮るんだしなあ」

「失礼な、高校生にもなってスクール水着じゃないよ、競泳用だよ」

 そうだ、光留になら頼めるかも知れない、とこのとき水果は急に気付いた。どうして今まで、この叔父の存在を忘れていたのだろう。光留なら。

 水果は正座して、光留に向き直った。

「……光留叔父さん」

「あっ、ごめん気ィ悪くした? 水果のことバカにした訳じゃないんだけど、」

「ううん、そうじゃない。……私の写真、頼んだら撮ってくれるの?」

「なんだ急にそんな、あらたまって。バイトの履歴書用か? それともまさか、今のうちにお見合い写真を」

「撮ってくれるの? 光留ちゃん、人間撮るの嫌いそうだから、訊いてるんだけど」

「嫌いだけどさ、水果に頼まれりゃ別だよ」

「ヌードでも?」

「えっ?」

 起きていても半ば閉じているような光留の重い目蓋が見開かれる。

「私、ちょっと前から裸の写真を撮ってほしいって思っていて」

「……」

「誰にも頼めないから諦めていたんだけど、光留叔父さんが撮ってくれるなら……」

 自分でも気付かないうちに、水果は揃えた膝の上でこぶしを固く握っていた。目線を上げていられず、畳の目を見つめる。日に焼けて黄色くなった畳の上には写真の荒野。無人の乾いた大地に、何度となく姿見に映した自分の裸体を重ね、ひとり立ちつくしているのを幻視する。

 光留はシャツの胸ポケットから、名前の通り駱駝の絵の包装のキャメルを取り出して、火を点けた。

「何に使うんだ」

「……」

「いかがわしい小遣い稼ぎじゃないだろうな」

 激しく首を振った水果の、揺れる髪から微かに塩素のにおいがした。

「違うよ、そんなんじゃない。絶対に違う。信じてもらえないかも知れないけど、私、真面目なんだよ」

 難しい顔をしたまま光留が無言で煙を吐き出しているので、おそるおそる水果は言葉を継いだ。

「……わけを言った方がいい、よね」

「…………いや」

 亡くなった曾祖父の煙草盆を引き寄せて灰を落とし、ほとんど手つかずのまま光留は煙草を灰皿に押しつけた。

「いいよ、わかった。俺だって水果が、くだらない理由でこんなことを言い出すなんて思ってない。撮ろう。何なら今日これから撮ってやる」

「えっ」

「都合悪いか?」

「……ううん、だいじょうぶ。光留ちゃんが良ければ」

「よし。ちょっと準備してくるから、その間に水果も支度しときな」

 光留は先刻までと打って変わったきびきびした動きでカメラを手に立ち上がり、襖をきっちりと閉めて出て行った。ひとりになった途端、妙に座敷が広く感じられた。水果は縁側のガラス戸越しに、まだ明るい夕方の庭を見やった。雨戸を閉めようか、と少し迷う。ブロック塀があるので表の通りから覗かれることはないが、開放的すぎて落ち着かない。しかし結局そのままにして、部屋のなるべく薄暗い隅に隠れるようにして制服を脱いだ。

 ヤングマガジンとビッグコミックスピリッツが、積んである座布団の傍に無造作に転がっている。青年誌の漫画のなかでは、いかなる理由であれ女の子が服を脱ぐと、それは誘惑しているというシチュエーションになってしまう。水果にそんな意思がないことぐらい光留は重々承知しているだろうし、水果が光留を兄のように感じているのと同じで、光留だって水果をせいぜい妹のようなものとしか認識していないはずだ。いや、でもそんな家族のような間柄だからこそこの依頼、この状況は異様なのだろうか?

 他人の家の座敷に裸でいるという落ち着かなさも手伝って、居た堪れないような気持ちで膝を抱えていると、光留の気配が戻ってきた。

「水果? 入るよ」

「……はい」

 光留は入ってくるなり水果を立たせ、光の具合を見てポジションを決めた。かれは人形を動かすように水果を扱い、被写体を見るつめたい眼差しで水果を見た。

 指示された場所に立ち、光留の構える一眼のレンズと向かい合って、水果は一度大きく深呼吸した。水泳部の仲間たちによくからかわれる、けれど自分では無駄に発達しなかったことにひそかに安堵している胸が呼吸にあわせてあからさまに上下し、思わず逃げ出したくなった。私が言いだしたことじゃないか、と怯む自分を叱咤して、背筋を伸ばす。

「ああ、その感じいいよ。そんな感じで、仁王立ちになってて」

「笑ったほうがいいの?」

 冗談ぽく言ったつもりの声がうわずっているのに自分で驚いた。笑顔なんてつくれる状態じゃない、がちがちに緊張してしまっている。光留が柔らかく言った。

「いい、無理しなくて。そのままこっち睨んでな」

 何の合図もなくフラッシュが光り、視界が真っ白になった。体ごと、印画紙に焼き付けられたような錯覚。光留は無言でシャッターを切り続けた。何度かポーズと立ち位置を変え、やがて光留は唐突に「はい、終了」と言った。水果は何度かまばたきをしてぎこちなく手足を動かした。夢中になっていてまったく気がつかなかったが、とっくに日が落ちて、ガラス戸の向こうは真っ暗になっていた。

「……ありがとう」

「うん」

 光留は機材を抱え、また律義に襖を閉めて出て行った。まだどこか、体が自分の体ではないような感覚が残ったまま、服を着て水果が隣の部屋に顔を出すと、光留はちゃぶ台に片肘をついてラジオを聞いていた。

「お疲れさん」

「……うん」

「これは俺が責任持ってひとりで焼いておくから。店には出さないから安心しな」

 光留の言葉に水果ははっとする。現像のことまで考えていなかった。

「……光留ちゃん、現像なんて出来るの?」

「出来るよ。来週ぐらいに取りに来な」

「わかった。……ほんとにありがとう」

 程なく、祖父母が帰ってきて家は急に賑やかになった。夕食を勧められ、四人で食卓を囲んでいると、光留に写真を撮ってもらったことが夢のなかの出来事のように思えた。


 光留はいつもの庭に面した座敷にいた。今日は寝そべっておらず、胡坐をかいて扇子を使っていた。手元から、白檀の香りがゆるゆると漂う。

 少し緊張した面持ちで現れた水果を見ると、光留は微笑して、白い封筒を差し出した。

「ほら。フィルムも一緒に入れてある。俺の手元には一切何も残してない」

「何それ。一枚ぐらいあげてもいいのに」

 いつも通りの声で笑いながら言ったけれど、喉に引っ掛かって少し掠れた。封筒を開く指先が微かに震えた。

 やけに厚みがある封筒の中を占めていたのはほとんどがフィルムで、入っていた写真は一枚きりだった。俯きぎみに横顔を見せて、背を向けている立ち姿。肩甲骨がくっきりと浮き、無駄な肉が削ぎ落とされた背中は性も生気も感じさせず、静かな稜線を描いていた。

 コンマ数秒を縮めることに挑み阿佐美葉子の記録を追いかけた成果、いくらか痛々しく見える肉体を、光留は淡々と写しとっていた。

「それでよかった?」

「うん」

 麦茶でも飲むか、そう言って光留は立ち上がり、すぐにグラスを二つ持って戻ってくる。

「……体をつくろうと思って、春先からトレーニングしてたのね、私」

「うん」

「自分で言うのも何だけど、それが結構うまくいって。多分、今の状態が、私が思う私の理想の体なんだ。だから……記録に残しておきたくて」

 これからも怠ることなくトレーニングを続けたとしても、自然に肌が輝き、しなやかにラインが張りつめている今の状態を何年も保てるとは思えない。いずれ垂れたり萎んだりしていくだろう。さりとて、同じ年頃の少女たちのように、服を脱いで体の全部を曝け出せるようなボーイフレンドもいなかったし、そもそも水果はそういう存在を求めていない。憧れているあの人に――阿佐美葉子にそれを受け止めてもらうことなどは、望んでも無駄なことだと最初から諦めている。

「成程ね」

「でも、引き受けてもらえると思ってなかった、正直。光留ちゃんヌード写真なんて、いちばん嫌がりそうだから」

「嫌いだよ」

「どうして撮ってくれたの? いとこのよしみ?」

「……いや」

 光留は例のナショナル・ジオグラフィックスの、例のページを開いた。

「この写真を見てから砂漠にはまって、いつかここへ行って写真を撮るのが夢だったんだけど……もう叶わないんだ」

「えっ、なんで?」

「緑化運動が始まったんだそうだ。師匠に聞いた。俺がカメラを担いでここへ辿り着く頃には、もうこんな荒れた景色はなくなってるんだろうなあ」

 呟いて、光留は写真に見入った。水果もつられて見つめた。砂漠に水を、植物を。荒野を緑の野原に。善いことだ。木が根付き、土地が肥えれば、畑になって作物を実らせることだって出来るかも知れない。潤うこと、実ること。それを止める理由がどこにあるだろう。

 そしてこの赤茶けた大地は失われる。

「……不毛なままのこの荒野の姿を、美しいと思うことを……俺は否定したくないんだ。だから……」

 水果を撮ったんだ。唐突にそう続けて、光留はやや乱暴に雑誌を閉じた。


 光留が手洗いに立ち、取り残された水果は卓上のナショナル・ジオグラフィックスを手に取った。はずみに、写真が一枚、ひらり、と落ちた。何年も前に撮られたものなのだろう、焼けてしまっている。何気なく拾い上げて水果は息をのんだ。水果の肖像と、よく似た雰囲気の写真だった。夜なのか、雨戸を閉ててあるけれど、背景も同じ座敷。ただ、被写体は男性だった。男性の裸体など、ぞっとして見たいとも思わないのだが、その写真はあまりにも静かで、不思議と嫌悪感はなかった。

 ――はじめ、水果は光留が撮影したものだろうと思った。光留の作品と良く似た手触りだったからだ。しかし、よく見ると、被写体の男性は光留その人なのだった。光留によく似た手つきで、光留を撮影することができる人物。――彼のカメラの師匠の手になるものだと、水果は直感した。

 ああ、そうか、と水果は思った。だから光留は水果を撮ってくれたのだ。水果の望む通りの写真を。水果の体がそうであるように、光留の体も不毛の土地だったから。水果が抱えている荒野を、光留も抱えているから。

 目蓋が熱く潤んでくるのを感じ、水果は天井を見上げて二、三度瞬いた。砂漠に降る驟雨が砂に吸い込まれてしまうように、瞳の表面はすぐ、何事もなかったように乾いた。

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