　私は、過去（かこ）の風景（ふうけい）を想像（そうぞう）してみました。山々（やまやま）は緑（みどり）で覆（おお）われ、晴（は）れた日（ひ）には小鳥（ことり）たちが歌（うた）うかのように鳴（な）き、木（き）の上（うえ）にはリスがいてドングリなどを頬張（ほおば）っている光景（こうけい）。まるで童話（どうわ）のような世界（せかい）です。

　今の私は、植物（しょくぶつ）も生物（せいぶつ）もない世界（せかい）で岩山（いわやま）を登（のぼ）っています。道（みち）など、ありません。山（やま）は文字（もじ）どおり岩（いわ）の塊（かたまり）で、ごつごつとした出（で）っ張（ぱ）った部分（ぶぶん）に手（て）や足（あし）を引（ひ）っかけて、私は第（・）一（・）の小山（こやま）を進（すす）んでいきました。小山（こやま）と言（い）っても標高（ひょうこう）は五百（ごひゃく）メートルを越（こ）えていて、傾斜（けいしゃ）がきつく、時（とき）には垂（すい）直（ちょく）に近（ちか）い岩壁（いわかべ）を登攀（とうはん）していきます。

　この小山（こやま）を越（こ）えて、向（む）こう側（がわ）へ降（お）りた後（あと）には、第二（だいに）の岩山（いわやま）が待（ま）っています。高（たか）さは三千（さんぜん）メートル以上（いじょう）でしょうか。幸（さいわ）いというべきか、頂上（ちょうじょう）まで行（い）く必要（ひつよう）はありません。第二（だいに）の山（やま）には、八合目（はちごうめ）の辺（あた）りに人家（じんか）が見（み）えるのです。一軒家（いっけんや）で、そこが私の目的地（もくてきち）なのでした。

　何故（なぜ）、私は険（けわ）しい山の岩壁（いわかべ）を、こんなに必死（ひっし）に登（のぼ）っているのでしょう。昔（むかし）の登（と）山家（ざんか）は、『そこに山（やま）があるからだ』と言（い）ったそうですが。私も似（に）たような心境（しんきょう）です。理屈（りくつ）ではない何（なに）かが、私を動（うご）かしているようでした。合理性（ごうりせい）を求（もと）めるべき機械（ロボ）人形（ット）にはあ（・）る（・）ま（・）じ（・）き（・）ことですが。

　まず言（い）ってしまえば、私は目的地（もくてきち）である人家（じんか）に、人間（にんげん）が生（い）きているとは思（おも）っていません。研究所（ラボ）の近（ちか）くから昼間（ひるま）に、何日（なんにち）か私は観察（かんさつ）を続（つづ）けてみましたが、人（ひと）が家（いえ）から出（で）てきたことはありませんでした。私は救助（きゅうじょ）が目的（もくてき）で動（うご）いている訳（わけ）ではないのです。

　昔（むかし）は救助（きゅうじょ）犬（けん）という存在（そんざい）があったそうですが。災害（さいがい）による行方（ゆくえ）不明者（ふめいしゃ）、遭難者（そうなんしゃ）の命（いのち）を救（すく）う犬（いぬ）で、立派（りっぱ）なものです。しかし、その救（すく）うべき人類が死滅（しめつ）してしまった世界で、救助（きゅうじょ）犬（けん）や私は何（なに）を目的（もくてき）にしていけば良（よ）いのでしょうか？

　人類も犬（いぬ）も居（い）ない世界に残（のこ）された私は、頓珍漢（とんちんかん）な存在（そんざい）に思（おも）えて仕方（しかた）ありません。私は所詮（しょせん）、機械（きかい）に過（す）ぎないのです。人間（にんげん）に使（つか）ってもらってこそ、私は社会（しゃかい）に貢献（こうけん）できると思（おも）われます。その人間（にんげん）も社会（しゃかい）も消（き）えた世界で、私は何（なに）を目的（もくてき）にして存在（そんざい）していけば良（よ）いのでしょうか。

　目的（もくてき）を見失（みうし）った私は今（いま）、何（なに）かに憑（つ）かれたかのように岩山（いわやま）を乗（の）り越（こ）えて行（い）きます。もう何日（なんにち）も雨（あめ）は降（ふ）っていなくて、そのことは登山（とざん）に好都合（こうつごう）でした。濡（ぬ）れても私の身体（からだ）は錆（さ）びたりしませんが、足（あし）を滑（すべ）らせての落下（らっか）というのは大（おお）いに有（あ）り得（え）ます。

　第一（だいいち）の小山（こやま）を越（こ）えて、その頃（ころ）には、ずいぶんと陽（ひ）が傾（かたむ）いてきていました。研究所（ラボ）で私の帰（かえ）りを待（ま）っている彼女には、『帰（かえ）ってくるまで二十四（にじゅうよ）時間（じかん）は掛（か）かる』と言（い）いましたが、見（み）たところ目（もく）的（てき）地（ち）である人家（じんか）までは研究所（ラボ）から二十時間（にじゅうじかん）ほど掛（か）かりそうです。夜間（やかん）は私も休（やす）む必要（ひつよう）があるので、今夜（こんや）は第二（だいに）の岩山（いわやま）の、途上（とじょう）で身（み）を横（よこ）たえて過（す）ごそうと思（おも）います。

　第二（だいに）の岩山（いわやま）も、道（みち）とも言（い）えない山道（やまみち）を私は登（のぼ）っていきました。人家（じんか）があるのですから、きっと私が登（のぼ）って、そこへ辿（たど）り着（つ）くことは可能（かのう）なのでしょう。とても合理的（ごうりてき）とは言（い）えない思考（しこう）で、捨（す）て鉢（ばち）なのか楽観的（らっかんてき）なのか、私は自分のことが分（わ）かりません。自己（じこ）分析（ぶんせき）が難（むずか）しいのは、人間（にんげん）もロボットも変（か）わらないようです。

　夜（よる）が来（き）て、高所（こうしょ）ですから酸素（さんそ）は薄（うす）くなって気温（きおん）は下（さ）がります。ロボットの私は火（ひ）を起（お）こす必（ひつ）要（よう）もありません。とは言（い）え夜間（やかん）は私の発電電（はつでんでん）力量（りょくりょう）も少（すく）なくなるので、歩（ある）けるだけ歩（ある）いた後（のち）、適当（てきとう）な所（ところ）で私は腰（こし）を落（お）ち着（つ）けました。テントを張（は）る必要（ひつよう）もないのですから、ロボットの野宿（のじゅく）とは楽（らく）なものです。

　外敵（がいてき）の襲撃（しゅうげき）もないと思（おも）われるので、しばらく気楽（きらく）に星空（ほしぞら）を眺（なが）めて、それから自身（じしん）の電源（でんげん）をオフにして私は休（やす）みます。休（やす）んでいる間（あいだ）に誰（だれ）かが襲（おそ）ってくれれば、頓珍漢（とんちんかん）な存在（そんざい）である私のことも、この奇妙（きみょう）な登（と）山（ざん）も終（お）わって楽（らく）になれるのかなぁなどと、そんなことを少（すこ）し思（おも）いました。