袴垂、参る

奈月沙耶

 

第一話

1-1

「もらっちゃお、もらっちゃお。もったいないから、もらっちゃお」

 赤い斜陽が白茶けたススキを異様な色に染めていた。

 朱とも金ともとれる薄暮の中でゆらゆら動いている影がある。


「もらっちゃお、もらっちゃお……」

 歌ともいえない、節がついたようなつかないような力のない声は、しゃがれてかすれて彼の耳に届いたことは奇跡に近く。

「もらうものなんか残ってるかぁ?」


 影は揺れを小さくしてぎくしゃく傾ぐ。こけた頬としわしわにすぼんた唇とが、西日で更に濃い陰影をつくる。

 子どもは力なく答えた。

「んーん、なんもない。なーんにも」

「だろうなぁ」


 今年の鴨川の氾濫は疫病も連れてきた。今、河原に転がっているのは多くはその犠牲者だ。ありとあらゆるものにありとあらゆるものを漁られ、剥がされ、何も残っていはしない。


 彼は野分で倒されたススキの一本を拾い上げる。枯れて鋭利になっている茎の断面で、埋もれている衣の切れ端を引っ張り上げてみたが、ぱらぱらと繊維が崩れ粉になった。

「なんもねーよなぁ」

 ぽいっとススキを投げ捨てて、彼は子どもを見下ろした。


「もうちっと、なんかありそうなとこに行こうぜ」

 頭をあげる力もないのか、子どもは動かない。

「しゃーねえなぁ」

 よっこらしょと屈んで彼は子どもを抱き上げた。やせ細ったからだの節々の感触が腕に痛い。


 さくさくと冬枯れた草木を踏み分けて河原を歩き始める。

 途中、さっきまで彼が寝そべっていた板切れの陰に、棒切れのような手足の老人が潜り込むのが見えた。これから訪れる夜半には、あんなねぐらでは野犬に襲われる。

 彼はさくさくと河原を歩きすぎる。彼の腕はやせぎすの子どもで手一杯だ。


 その昔の、なんとかいう皇族の邸宅跡だという廃墟を横目に河辺を離れる。

 条坊の小路に入ったが荒れ具合のほどはさっきまで居た河原とも廃墟とも変わらない。

 川面から好き勝手に引かれた水路で足元はぬかるみ、これまた好き勝手に通路を作るために築地堀は穴が開いたり崩れたりしている。


 あくびをひとつ噛み殺し、腕の中の子どもを抱え直して彼は歩く。

 日暮れていくのと共に視界も暗くなっていく。

 ここは荒野だ。

 貴族の邸宅が並ぶ四条よりも大内裏側に人々は居住し、六条のこのあたりに住むのは、人付き合いを好まない世捨て人かよほど変わり者な貴族や皇族と、その従者くらいだ。


 そんな数少ない住人なのか、薄暗がりの前方から松明を持った人物が近付いてくる。

「やい」

 名乗る名前を持たない彼をどう呼ぶかで正体はわかる。

「おう」

 応えて彼は松明の光を受けて口角を上げる。


「おまえは運がいい。会ったら教えてやろうとおも……」

 真任まなとは口を止めて彼の胸元を凝視した。

「なに持ってんだ?」

「河原で拾った」

「売るのか?」

「どっか大路に置いとけば検非違使が施薬院せやくいん(怪我人病人のための救済施設)か悲田院ひでんいん(孤児や貧窮者のための施設)に連れてくだろ」

「……」


 かみ合わないやりとりに改めて彼の腕の中を覗き込んだ真任まなとは眉を顰めた。

「穢れだって、河原に逆戻りじゃないか」

 彼も眉を顰めて灯りの中で子どもの顔を覗き込んだ。

「死ぬのか?」

「わかんない」

「だよなぁ。わかんねーよ」

 けけけ、と笑って彼は真任まなとの脇をすり抜けて歩き出す。


 結局、子どもは左京の悲田院に放り込んできた。

 門はとっくに閉じていたが、むりやり蹴破り、奥が騒がしくなったところで路地に置いてきたから受け入れられただろう。

 なんにしろ、子どもに運があれば生き延びる。彼がそうだったように。


「で、なんでおまえはついて来てるんだぁ?」

 振り返って尋ねると、真任まなとはひょいと松明を少し高くかかげて笑った。

「ここまで来たならちょうど良いと思って」

 確かに、ここはもう三条だが。

「今夜、白妙さんのところの仕事があるぜ」

 松明を向けた方に集合場所があるのだろう。

「どうすっかなぁ」


 結局、言われた辻に向かったが、今度は真任まなとはついて来なかった。

 あの男はたいがいこうだ。情報を拡散だけして行動に加わらない。

 いつ会ってもこざっぱりした水干姿だし、「真任」なぞという立派な名前は主家からもらったのだろうし、どこぞの貴族の従者なことは間違いなかろうに、この場に集まった強面の荒くれ者たちよりよほど得体が知れない。


 得体が知れないといえば、今夜の事の首謀者である白妙の姿もない。これもいつものことだ。

 現場を指揮する盗賊頭たちが動き始め、荒くれ者たちもその後について移動する。彼も集団の最後尾を歩く。


 彼の隣には小柄な猫背の男がいて、小刻みに震えながらこめかみから汗を垂らしていた。いかにも初仕事で緊張している風だが、そもそも強盗に参加するような風体でもない。

 彼はあくびをかみ殺して、歩きながら片方ずつぐるぐる肩を回す。


 ほどなく、とある門を抜け、二十人ほどの集団はとある場所へと入り込んだ。

 松明は必要ないほど月が明るかった。

 ここも荒野だ。本来、朝政を行うはずの荘厳な宮殿や、壮麗な饗宴に用いられる建物は、使われなくなり荒廃している。


 広大な儀式空間を作り上げるはずが上手くいかず、放置されているさまは都大路と同じだ。

 天子の住まいがあろうと、雲上人とも呼ばれる上級貴族が闊歩しようと、官庁が並び役人である中級下級貴族が出入りしていようとも。

 出入りできるのは雑色も従者も盗賊も同じだ。同じなのだ。

 ここは宮城――大内裏だ。

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