第7話 二人の夢
ガラスの壁の向こう、和光の時計塔が見える。垢抜けた人々が行き交う大通りには、瀟洒な店が軒を連ねている。その一角に美容室を構え、こうして客を待っている自分がいる。これが幻である事は、美代子には分かっていた。
ドアベルが鳴った。「いらっしゃいませ」と辞儀する。やって来たのは、稲佐山で出会った少女だった。
「こいが銀座の美容室かー。お洒落やねぇ」
無邪気に言う少女の顔に、恐怖の色はない。ほっとする。梓と名乗った彼女を、美代子は席に案内した。
「どのようにします?」
「うーん、逆にどがんしたらよかと?」
嬉しい質問だ。散髪ケープを被せたあどけない顔を鏡越しに観察し、写真を見せながら好みを聞く。
「内巻きのワンカールボブなんてどうかしら。清楚で大人っぽい感じが出るし、朝のセットも楽よ」
梓の首肯を確かめ、美代子は鋏を入れた。
「あなたを初めて見た時に、思ったの。きっとボブが似合うって」
「そいでうちに近付いたと?」
「ええ」と頷く。理由はそれだけではなくて、彼女の恋を応援したかった。どうやら梓には好きな男子がいるらしいのだが、自分に自信がない様子だった。美容師として、そういう子の背中を押してあげるのが夢だった。
「ごめんなさい、あんな風に来られたら怖いよね。脅かすつもりはなかったんだけど」
「よかよか。確かにびっくりしたかばってん、お陰でこげなお洒落な美容室に来れたっさ」
ちゃき、ちゃきという小気味好い音が、クラシックの旋律に乗って店内に流れる。一時間ほどが経ち、カットが終わった。
「こんな感じ。どうかしら」
我ながらよい仕上がりだ。梓は目を丸め、鏡の中の自分に見惚れているようだった。
「こ、こいがうち?」
「そうよ。クラスの男の子もきっと驚くわ」
「ありがとう、美代子さん。なんかちょっと、自信ついたっさ」
はにかみながら、嬉しそうに梓は言う。美容師冥利に尽きる一言だった。
「お礼を言うのは私の方。夢みたいな時間だったわ。ずっと待ってた人にも会えた。全部、あなたのお陰よ。心残りはないわ」
「いっちゃうん?」
「ええ。死んだ人間がいつまでも留まるべきじゃないわ」
散髪ケープを脱いだ梓は、鞄に手を伸ばした。出てきたのは茶封筒で、見覚えのある数珠が巻かれていた。割烹着の不思議な老女に渡された物とよく似ている。そこから三つ折りにされた紙を取り出して、差し出してきた。
「渡してって、和尚様に頼まれたっさ」
躊躇いがちに開く。美代ちゃんへと題し、懐かしさを覚える筆跡で文章が綴られていた。
『お久しぶりです。こうして四十数年ぶりにあなたに手紙を送る事に、驚きを覚えています。長い間待たせてしまい、申し訳なく思います。
当たり前ですが、生きていると歳を取る訳で、僕もすっかりジジイになってしまいました。まさか坊主になっているとは思わなかったでしょ? 自分でも意外に感じています。
あなたのようにしっかりした子供じゃなかったから、将来の夢なんてのは僕にはありませんでした。強いて言うなら、大人になっても美代ちゃんの傍にいたいなと、そんな程度です。
長崎に来たのは、あなたを探す為でした。原爆死没者名簿の中にあなたの名前を見付け、愕然とした僕は、仏の道に進む決心をしました。喜怒哀楽と決別したかったのです。
しかし、人の心とはそう都合よく出来ていないものですね。頭を剃って袈裟を着て、毎日読経しようとも、あなたを忘れられる日はありませんでした。この先もそうでしょう。
美代ちゃん。僕は生涯、あなたが好きです』
手紙の右下、高野三郎の四文字を見付け、美代子はその場にへたり込んだ。自分という存在が、彼に孤独な人生を歩ませてしまった。罪悪感を抱く一方で、幸せだった。彼を思い続けた数十年が報われたようで、ただただ涙が溢れた。
「現世に残ればよか。会えばよかばい、これからも」
「梓ちゃん……」
「和尚様の事好きなんやろ? 生きてるとか死んでるとか、関係なかとよ」
涙を拭いながら、美代子はかぶりを振った。
「会ったって仕方ないわ。私達に未来はないもの」
「そがん……」と、悲しい顔で梓が言った。
「戦争さえ無ければ、二人だって……」
「戦争は憎いわ。でも、時代のせいにばかりは出来ない。私達にだってタイミングはあった。勇気が無かったのよ」
斜陽が射し込む。夢のような時間が、終わろうとしていた。ガラスドアの前に立った梓が、名残惜しげに振り返る。表情こそ暗いが、垢抜けて見えた。
「やっぱりよく似合ってるわ、梓ちゃん」
努めて明るい声色で、応援するつもりで美代子は言った。
「思いを伝えるのは怖いけど、自信を持って。勇気が湧くから」
きっと伝える、頷く梓の顔はそう言わんばかりだった。未来ある彼女に幸あれと、それが美代子の最後の願いだった。
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